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真田信繁の最期と幸村の名!徳川家康を大阪夏の陣で討ち取っていただと!?新説だらけの戦国歴史ロマン

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大阪夏の陣で豊臣秀頼を守るために
戦い、最期を遂げた真田信繁は、
後の世で真田幸村として
戦国時代の物語の登場人物として
多くの人々に親しまれてきました。

江戸時代中期の真田三代記に始まり、
今でも多くの書籍で真田幸村が登場する
話を読むことができます。

徳川家康が率いる軍は十分強かった
にもかかわらず、
父真田昌幸のように知恵を使って
何度も徳川家康を追い詰めた
真田信繁の最期はどうだったのか
見ていきましょう。

 

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徳川家康を追い詰めた智将真田信繁


城の外堀の埋め立て後という、
大阪夏の陣のような
圧倒的に不利な状況でも
徳川家康を追い込む真田信繁。

真田幸村として数多くの話に
登場し、人々に親まれてきました。

徳川家康を何度も追い込む姿は、
江戸時代に多くの人の心を掴む要素が
たっぷりです。

また、最後まで豊臣秀頼のために
戦ったことも人気が出る理由の
一つでしょう。

そのためか、真田信繁の最期は、
どこかでデフォルメされてきたのか、
様々な語られ方をされているようです。

関ヶ原の戦いの直前までの
1585年と1600年との二回、
父・真田昌幸は、
上田での合戦で徳川軍に勝ちました。

これで父・真田昌幸は
名を上げることにはなったものの、
これに従っていた真田信繁とともに
結果的に和歌山の九度山に流罪と
なります。

関ヶ原の戦いに参加しなかったとはいえ
西軍側についていたからです。

最初、徳川家康は、
真田昌幸と真田信繁親子の命を取る
つもりでいましたが、
真田信繁の兄・真田信幸と信幸の岳父が
願い出たことにより
命は助かることになります。

兄・真田信幸は東軍側に
ついていたのです。

この助命願い出の後、
父・真田昌幸との決別を
徳川家康らに示す為に、
兄・真田信幸は名を信之に変えました。

父・昌幸から受けた「幸」の文字を
自らの名から取ったのです。

 

後に真田幸村として語られる真田信繁


兄・真田信幸が、「幸」を取り、
読みは同じまま名を信之に変えました。

そのため、真田信繁が亡くなった後に、
「幸」のつく幸村という名を
付けられたようです。

これは、真田信繁だけでなく、
父・真田昌幸も大変好かれていたと
考えることができそうですね。

じゃあ、幸村の「村」はどこから?
というのは、徳川家が嫌ったとされる
妖刀「村正」からなのだそうです。

徳川家と互角に戦った真田信繁の名に、
確かに似合いそうな由来です。

しかし、この「村正」は
現存している上に、なんと、
徳川家康の遺産の記録に残っています。

つまり、「村正」を徳川家が嫌ったのも
おそらく後の世の作り話なんですね。

幸村の名だけでなく、由来までもが、
本当によくできた物語です。

 

大阪夏の陣で最期を遂げる真田信繁の様々な説


徳川家康を何度も翻弄した真田信繁は、
父・真田昌幸の戦いぶりと並んで
物語性に富んでいます。

大阪夏の陣での戦いぶりや最期が、
ドラマティックに後の世で
語られているうちに、
幸村と名前が付けられただけでなく、
真田信繁の最期の話自体に
バリエーションが出てきている
様子です。

大阪城は、城塞として
ほとんど役に立たない状態であった
だけでなく、
兵力すら徳川勢の約半分だったにも
関わらず、一時は
真田信繁は徳川家康を討ち取るまで
あと少し、というところまで迫ります。

徳川家康は、切腹までをも
考えますが、
側近にこれを強く止められています。

真田信繁の働き・作戦で勢いのあった
豊臣勢も、時間の経過とともに、
疲れが出てきます。

ここからが、真田信繁の最期
にバリエーションが見られる箇所です。

代表的なものは、現在の大阪市天王寺区
にある安居神社境内で
真田信繁が休んでいた所を、
松平忠直の家臣西尾宗次に
見つかります。

「わしの首を手柄にされよ」との言葉を
残して最期を迎えるというもの。

最近の新説では、
松平忠昌(松平忠直の弟)の戦功を
記した文書が2013年に見つかり、
それに基づいたものです。

西尾宗次が、相手が真田信繁とは
知らないままに槍で戦い、
討ち取ったとの内容です。

菊池寛による真田幸村の記述では、
馬に乗ったまま深い傷を負った所に、
西尾宗次が槍で突いた様が
書かれていたりします。

残っている記録でも、創作でも、
「西尾宗次が相手を誰だか分からずに
戦功を上げてしまった」
という部分は共通しているようです。

おそらく、この知らなさ加減が
ちょうど良かったのでしょう。

徳川家康は、真田家を大変
恐れていました。

1回目の上田の合戦の後は、
父・真田昌幸の強さを目の当たりにし、
重鎮本多忠勝の娘を
兄・真田信幸のへ嫁がせ取り込みます。

2回目の上田の合戦に
子の秀忠が負けた後は、
父・真田昌幸と真田信繁とを
流罪にして力を削ぎます。

大阪冬の陣の後は、
子の真田信繁までもが強いと知り、
自分に取り込もうとしても
出来ずじまい。

万全の体勢を整えたはずの大阪夏の陣で
切腹を覚悟するまで真田信繁に
追い詰められました。

徳川家康とともに戦ってきた者たちは、
いくら真田信繁が疲労していたとしても、
そうと分かれば
気持ちで勝てずにいたかもしれません。

真田信繁があまりにも強かったためか、
豊臣秀頼を連れて真田信繁が鹿児島へ
逃げたというお歌まで
作られたそうです。

多くの影武者までいたとも言われる
真田信繁の大阪夏の陣の最期は、
本当はどうなのでしょうね。

 

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新説!徳川家康を大阪夏の陣で討ち取っていた!?


そして近年、2012年9月29日付の
日経新聞関西版夕刊に掲載された記事が
話題を巻き起こしています。

徳川家康の墓が、
”久能山東照宮”と”日光東照宮”以外に
堺の臨済宗大徳寺派の古刹『南宗寺』
にもあるという事でした。

これは、
徳川家康が切腹を止められた後に、
駕籠に乗り逃げる最中、
豊臣方の後藤又兵衛が発見され、
駕籠を槍で突かれながらも
執拗な後藤又兵衛を何とか振り切って
堺の南宗寺に辿り着いたが、徳川家康は
既に息を引き取っていたという説です。

徳川家康の不在を隠す必要もあり、
南宗寺開山堂の床下に埋葬したとされ、
後に、2代将軍秀忠、3代将軍家光が
参詣した記録が残っているそうです。

その後約400年に渡り徳川宗家の
参詣記録は無く、この事実が闇に
葬り去られたのではないかと、
言われている様です。

大阪の陣の際には既に、
徳川秀忠に代替わりしており、
徳川家康が不在であっても、
統治に問題は無かったと
考える事も出来ます。

昭和42年に水戸徳川家家老の子孫
とされる三木啓次郎氏が、
松下幸之助らの援助を受けて、
南宗寺に徳川家康の墓を建てました。

これは、徳川家によって
久能山の東照宮から勧進された
という事です。

徳川家康を埋葬した時の南宗寺の住職は
京都大徳寺住持も務めていた、
有名な沢庵和尚であり、後に、
第3代将軍徳川家光の帰依により
徳川家に保護されています。

ですが、現在の徳川宗家は、
この説も、墓の事も、否定しています。

真田信繁の直接の手柄ではありませんが
真田信繁の盟友、後藤又兵衛の活躍で、
しかも、沢庵和尚と徳川家の関係など
真実性を感じる歴史ロマンですね。

Mee

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