西郷隆盛の功績について簡単に解説!最後の言葉や場所までチェック!!

大政奉還、廃藩置県など、幕末から
明治維新の時代にかけて活躍した
西郷隆盛は「維新の三傑」の一人に
数えられている。

下級武士の長男として生を受けた彼は
島津斉彬の目に留まり、日本とアジアを
取り巻く世界情勢を学んだ。

そして西南戦争で最後の言葉を残して
自刃するが、その場所は生まれ故郷の
鹿児島であった。

ここで彼の功績と生涯について
簡単に説明しよう。

 

西郷隆盛が明治維新を成し遂げるまでについて簡単に説明する!

 


西郷隆盛は、1828年1月23日に、
薩摩国の鹿児島の加治屋町の下級藩士の
長男として生まれた。

彼の本来の名前は「隆永」であるが、
彼の知人が明治政府に於いて
彼の名前を登録する際に間違えて父親の
名前で手続きを行ってしまった名前が
そのままになった。

しかし当時の西郷隆盛は仲間内の通称で
あった「吉之助」の名前で呼ばれていた
ので、名前については、簡単に考えれば
わざわざ訂正する必要も無いと考えて
いたと思われる。

そして西郷隆盛は16歳となった1844年に
郡方所役助を務める事となるが、これに
ついて簡単に言えば、地方の農政に
関する事務職である。

しかし西郷隆盛はこの職に就く頃に
祖父と両親を亡くしており、この事に
ついて簡単に言えば、彼の家庭は
困窮する事を意味する。

そしてペリーが浦賀に来航して日本に
開国を迫った1853年、西郷隆盛は
薩摩藩の農政に関する意見書を提出した
所、藩主の島津斉彬の目に留まり、
この事が西郷隆盛の運命を変えた。

島津斉彬と共に江戸に上った西郷隆盛は
島津のお庭番となったが、
「お庭番」について簡単にいえば、
現在の「秘書」に相当する。

島津斉彬は、西洋の最新技術を取り入れ
日本を近代化し、朝鮮や中国といった
アジア諸国と同盟を結び、
西洋の帝国主義によるアジアの植民地化
を阻止しようという構想を持っていた。

後の太平洋戦争でうたわれた
「大東亜共栄圏」の言葉や、
軍歌の「加藤隼戦闘隊」の一節にもある
「新たにおこす大亜細亜」の歌詞にも
この構想が生きていた事については
簡単に説明出来るだろう。

西郷隆盛はこの教えを受けると同時に
自らも勉学に励む事で見識を深めた。

そして不平等条約を結んでいる幕府から
政権を奪う為、坂本龍馬と中岡慎太郎
の尽力もあって、西郷隆盛は討幕の為
長州の桂小五郎と薩長同盟を組む事に
なる。

そしてついには幕府に変わる新政府から
王政復興の大号令を出させ、旧幕府側を
追い詰めて江戸城の無血開城で幕府を
滅亡させることに成功する。

その後明治政府が発足したが、
西郷隆盛は鹿児島に帰っていた短期間に
内部では汚職が横行している事に
衝撃を受け、粛清に取り組んだ。

その一方で、行政の改革の為廃藩置県を
行う他、学校制度の整備などの政策を
行ったが、この政策も薩摩藩時代に
意見書を提出した時のように、国民が
安心して暮らすことが出来る様にしたい
気持ちからの物であった。

しかし、明治維新で韓国との関係が
こじれてしまっている問題が未解決で、
政府には一方的に国交を断絶した韓国を
討伐すべしという「征韓論」の意見も
あったが、西郷隆盛は、師と仰ぐ
島津斉彬の様に、韓国で近代化の必要を
解く事を主張し、天皇の許可ももらって
いた。

しかし、彼の盟友である筈の大久保利通
は政府内での立場が危うくなると考えて
急遽帰国し、西郷の意見を却下して
しまう。

この事で失望した西郷は政府を辞職し、
大久保の意見に異を唱える多くの人も
辞職した。

そして西郷隆盛は故郷鹿児島に帰り、
療養すると共に私学校を設立した。

しかしこの私学校こそが西南戦争の
原因となる。

 

西郷隆盛が苦戦した西南戦争!自決した場所と最後の言葉とは?

 


薩摩藩が財源となって完成した銃火器の
生産設備から中央政府が襲撃の上
略奪を行った事、西郷隆盛の闇討ち計画
が明るみになった事、そして西郷自身が
設立した私学校の生徒の暴動が原因と
なって明治10年(1877年)に
西南戦争が起こった。

この日本最後の内戦と言われる戦争で
西郷隆盛は指導者となったが、兵器で
ある砲・小銃が旧式の物しか無く、
その上数量が不足していた上に
火薬や食料なども不足していた事が
たたって進軍したどの場所でも
不利な戦いを強いられる。

政府軍にとっては抵抗勢力の全滅の、
そして西郷隆盛率いる薩摩軍にとっては
抵抗の為の最後の戦いになった場所は
西郷隆盛の故郷鹿児島の城山であった。

薩摩郡が城山入りした時点での武器は
小銃が150丁程度、大砲の砲弾も残り僅か
でしかなかったが、西郷隆盛の延命の
為に薩摩軍の幹部が政府軍に面談すべく
官軍側に近づくが、哀れにも捉えられて
しまい、幹部達の言葉は政府側には
届かなかった。

そこで西郷隆盛は城山の場所から
「此城を枕として決戦可致候」という
最後の言葉を薩摩軍全軍に伝え、
徹底抗戦の構えを見せた。

反対に政府軍側からは総攻撃の前に
自決を求める言葉があったが、
西郷隆盛は返答の必要なしとして
無視し、この夜に彼自身最後の宴を
賑やかに開いた。

その早朝、政府軍の砲撃から総攻撃が
開始され、薩摩軍の本営の城山の頂上は
1時間ほどで制圧され、西郷も政府軍の
銃弾に倒れてしまう。

もはやこれまで、と覚悟を決めた西郷は
近くにいた側近の別府晋介に最後の言葉
を発した。

「晋どん、もうここいらでよか…」との
言葉に別府は素直にうなずき、
西郷隆盛は別府晋介の介錯で自害した。

西郷隆盛がこの最後の言葉を残した
場所が生まれ故郷であった事は幸せで
あったと言えるだろう。

享年51歳であった。

彼の遺体は現在、南洲神社の鳥居附近に
あり、彼の終焉の場所には雅号を冠した
「南洲翁終焉之地の碑」が
建てられている。

 

まとめ

 


西郷隆盛の開国の考え方については、
簡単に言えば薩摩藩時代の島津斉彬の
言葉がベースになっていると
見るべきだろう。

彼の理想は帝国主義の方法で
他国に開国を迫るのではなく、国同士が
手に手を取り合うべきという理想が
あったからこそ、西南戦争において
不利でありながらも頑強に抵抗し、
彼の故郷である鹿児島という場所で
自刃で最後の瞬間を迎えたのだろう。

参考サイト
//hajimetesangokushi.com/2016/09/09/%E3%80%905%E5%88%86%E3%81%A7%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%80%91%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E4%BA%BA%EF%BC%9F2018%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%B2%B3/
https://history-men.com/saigotakamori-last/

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