デビュー40周年を迎えた田原俊彦さん。
かつては男性アイドルを数多く輩出するジャニーズ事務所にも所属し、世の女性を虜にしてきた事は有名ですよね。
今でこそ芸能人として一流の域ですが、生い立ちは壮絶なものがあったといいます。
田原俊彦さんが、一流芸能人として活躍するまでについて調べてみましたのでご覧ください。
田原俊彦の生い立ちが泣ける!
田原俊彦さんは、芸能人として活躍するまで貧しい生活を送っていたようです。
どのようなものだったのでしょうか。
ここでは、そんな田原俊彦さんの生い立ちについて調べてみました。
田原俊彦の生い立ちが泣ける!
田原俊彦さんの生い立ちは、1961年神奈川県横須賀市で生まれた所から始まります。
しかしながら、田原俊彦さんの公式サイトを見ると、山梨県甲府市出身となっています。
これは、たしかに横須賀市で生まれですが、「甲府で育ったという感謝の気持ち」と「当時の苦労を忘れたくない思い」があるようで、田原俊彦さんの意向によるものだそうです。
1967年横須賀市大津マリア幼稚園を卒園し、
同年横須賀市立馬堀小学校に入学しました。
しかし、入学してすぐの6月23日に、教師をしていた父親が糖尿病で亡くなってしまったのです。
家計が立ち行かなくなったため、翌7月2日に母、田原千代子さんの実家である山梨県甲府市桜井町へ引っ越したといいます。
長男だった田原俊彦さんには、姉が2人、妹が1人おり、千代子さんは1人で4人の子供を育てなければ、ならなくなってしまいました。
まだ男尊女卑が強く残っていた昭和40年代に、シングルマザーとして4人を養うのは本当に大変だった事でしょう。
引っ越し先は雨漏りのする8畳間だったそう。
田原俊彦さんは、長男としての責任感から、新聞配達をして家計を助けていたといいます。
それでも母子家庭の生活はやはり貧しく、その貧しい生活から早く抜け出して家族を楽にさせるには、自分が芸能人になって成功する以外に道はないと、中学生時代から芸能人になる事を決意していたそうです。
幼いうちから家族の事を考えてきたのだと思うと泣けてきます・・・。
田原俊彦さんには、そんな壮絶な生い立ちがあったのですね。
田原俊彦のジャニーズ事務所入所まで!
田原俊彦さんはその後、
山梨県立甲府工業高等学校に進学しました。
高校一年生の5月、ジャニーズ事務所に履歴書を送りましたが、返事が来なかったそうです。
当時は、家計を助けるためという動機が一番にあったといいますが、芸能界に憧れも持ち始めていたとの事。
返事が来なかったという事であれば、普通は諦めますが、田原俊彦さんには諦めきれない思いがあり、同年の8月に、事前連絡もせずに東京のジャニーズ事務所を直接訪問しました。
その時に、ジャニーズ事務所のスタッフがジャニー喜多川さんの居場所を教えてくれたそうで、日劇へ会いに行ったのだとか。
本当にすごい行動力ですよね!
ジャニー喜多川さん本人に直談判しに行くと、
そのままショーを見させてもらい、ランチもご馳走になったそうです。
そして、
「じゃあ来週からレッスンに来なさい」
との言葉をも貰い、何とその場で入所を認められたというのです!
芸能人・田原俊彦としての生い立ちも感動的です。
夢への大きな第一歩となって嬉しかったでしょうね。
母子家庭での貧乏な生い立ち!そして一流芸能人へ!
母子家庭の貧しい中で育ったという生い立ちの田原俊彦さんですが、今は一流芸能人として活躍しています。
どのような経験を経て、今の活躍があるのでしょうか。
ここでは、田原俊彦さんの上京時の感動エピソードや、デビュー時の活躍ぶりなどもご紹介していきます。
母子家庭での貧乏生活から一流芸能人へ!?
田原俊彦さんは貧困だった生い立ちを持ちながら、高校時代は事務所のレッスンのため、毎週末に甲府市と東京の間を電車で往復する生活を続けました。
費用もかかるのでキツかっただろうと想像されますが、何とその費用は全てジャニー喜多川さんが払っていたのだとか。
相当田原俊彦さんに思い入れが強かったのでしょうか。
田原俊彦さんは1979年3月、高校卒業と同時に正式に上京しました。
「芸能界に入ってパパには墓を、ママには家を建ててやるんだ」
と言っていたそうです。
当時千代子さんは、田原俊彦さんの芸能界入りについては賛成をしていませんでしたが、
「やっぱり芸能界は無理だった、なんて言って逃げて帰って来るんじゃないよ」
と言って強く背中を押してくれたのだとか。
田原俊彦さんは、今でもこの時の言葉を思い出す事があるといいます。
千代子さんは幼い頃から、
「勉強して、パパのような学校の先生になるんだよ」
と田原俊彦さんに話していたようで、本当は学校の先生として地元に残ってほしいと考えていたようです。
反対しながらも、応援したい思いで精一杯絞り出した言葉だったのでしょうね。
上京する際、田原俊彦さんは何度も何度も振り返って手を振っていたそうで、その姿を千代子さんもはっきりと覚えているそうです。
相当苦労してきたであろう生い立ちでしたが、田原俊彦さんは、高校3年生の秋に初めてのテレビ出演を果たします。
その番組は、『とびだせ!パンポロリン』(テレビ朝日系)。
当時歌と体操のお兄さんとして出演していた、ギャングスの松原秀樹さんの代役出演だったそうです。
田原俊彦さんが有名になったのは、何といっても学園ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)が一つの大きなきっかけでしょう。
しかし、沢村正治役として出演が決まった時、田原俊彦さんは既に18歳で高校を卒業していました。
オーディションに通りやすくするため、事務所側の意向もあり、1歳若く年齢を詐称したのです。
そのため、年齢との辻褄を合わせるために、公式のプロフィールも「高校を2年一杯で中退」に変更しなければならなかったそうです。
この件については、後に歌番組の中で謝罪がありました。
この『3年B組金八先生』で共演した
近藤真彦さんと野村義男さんとは、
共に「たのきんトリオ」の愛称で人気を博することになりました。
当時、田原俊彦さんの人気は凄まじく、全国から送られてくるファンレターの数が最高で月18万通にも達したといいます。
また、田原俊彦さんが出演する『3年B組金八先生』の
最高視聴率は、39.9%を記録したそうです。
田原俊彦は音楽でも一流へ!?
田原俊彦さんは1980年に初めてのシングル曲をリリースしました。
それが『哀愁でいと』。
1980年に、一人一人の個性を際立たせて歌謡界に送り込むというジャニーズ事務所の戦略の先鞭を切ったものでした。
これが70万枚を超える売り上げを記録。
当時のオリコンチャートでは、10週間1位を独走していた、
もんた&ブラザーズの
『ダンシング・オールナイト』に阻まれ、首位の座は逃してしまったものの、
『ザ・ベストテン』TBS系では3週に渡り1位を獲得したのです。
田原俊彦さんは、その年の数ある音楽の新人賞を総なめにしています。
第6回日本歌謡大賞:新人祭新人賞
第6回日本テレビ音楽祭:新人賞
第7回ABC音楽祭:服部良一特別賞
第10回銀座音楽祭:グランプリ・アイドル賞
第13回新宿音楽祭:金賞
第7回横浜音楽祭:新人特別賞
‘80 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭:最優秀新人賞
第11回日本歌謡大賞:放送音楽新人賞
FNS歌謡祭‘80音楽大賞:最優秀新人賞
第22回日本レコード大賞:最優秀新人賞
1980年だけでこれらの賞を受賞しているなんて、本当に大人気だったんでしょうね。
デビュー間もなく俳優としてだけでなく、音楽でも一流となったといえるでしょう。
ちなみに、デビュー3年で、家族のためにマンションを購入したそうです。
上京して行った時の言葉の通り、正に有言実行ですよね!
素晴らしい親孝行で、千代子さんも感激したに違いありません。
まとめ
今や一流芸能人となった田原俊彦さんですが、幼くして父親を亡くし、母子家庭で育った事が分かりました。
女手一つで兄妹4人を育ててもらったわけですが、その生い立ちは貧しさと共にありました。
そんな家族を助けるために、母親の反対を押し切ってまで芸能界を目指したエピソードがとても感動的でした。
これからも親孝行をしながら、いつまでも活躍を続けてほしいと思います。
参考サイト
Wikipedia
NEWS ポストセブン
田原俊彦 公式HP