加藤登紀子の夫は元赤軍の革命家!娘で歌手のyaeは鴨川自然王国で半農半歌手!?【ファミリーヒストリー】

「夢を見る男は美しい、のよ」

これは、加藤登紀子がある時、
ステージで漏らしていた言葉である。

これは生前夢を持って生きていた
夫である藤本敏夫に対してのものと見て
間違いない。

彼女の夫、藤本敏夫は元全学連委員長、
元赤軍に革命家として所属していた。

聴衆のテンションを上げる演説で
メンバーを鼓舞し、
羽田闘争や防衛庁突入を指揮した容疑で
拘留、そして実刑判決を受ける。

その服役中、多くの反対の声を
者ともせず一人の女性が彼の生涯の
伴侶となった。

その女性こそが加藤登紀子だった。

激動の時代を運命に翻弄されながら
結ばれた二人に授かった娘達のうち
1人は母親と同じくyaeという名で
歌手となり鴨川自然王国で娘婿と
奮闘しているという。

 

 

藤本敏夫が赤軍の革命家から
加藤登紀子の夫になるまで

 


加藤登紀子の夫、藤本敏夫は、
1963年に同志社大学文学部新聞学科に
入学し、当初は新聞記者を志していた。

大学2年の時に学生運動に参加して
「今までバラバラに頭の中に入っていた
一つ一つの事の関連が理解できた」
という事に感激し、
赤軍の革命家の道を歩む。

加藤登紀子が1968年度の卒業式の際、
ジーパン姿で出席したという噂を聞いた
藤本敏夫はコンサートの出演の依頼を
したが、彼女は政治問題に自分の歌が
革命家に利用されるのを嫌い、
この話を断った。

だが、それがきっかけで
二人の交際が始まり、
愛情を育んでいく事になる。

1968年の国際反戦デーに防衛庁突入等の
事件により、革命家藤本敏夫は逮捕され
1969年6月まで拘留される。

因みに、「ひとりで寝るときにゃよ
ひざっ小僧が寒かろ」という歌詞がある
「ひとり寝の子守歌」は、加藤登紀子が
後に夫となる拘留中の藤本敏夫を思って
歌った歌である。

藤本敏夫は1969年6月拘留までされた後、
赤軍の内ゲバ激化に反発し、
学生運動から身を引き、革命家の活動を
終えた。

この時に長崎県の平戸で
地球と人間の問題を考えるようになり、
これが後に加藤登紀子と共に
鴨川自然王国を運営するきっかけとなる。

しかし、彼は1972年4月21日に学生運動
での公務執行妨害と凶器準備集合罪の
容疑で逮捕される。

この頃、よど号ハイジャック事件や
大菩薩峠事件で日本中を震感させた
赤軍は武闘派の革命左派との統合で
連合赤軍となり、この革命家の集合体は
より強力になると思われたが、
主導権争いが原因となり、連合赤軍内で
暴力の総括が行われた。

これが連合赤軍事件の一つである
「山岳ベース事件」の始まりだった。

藤本敏夫は山岳ベース事件における
赤軍にいたかつての同志の革命家が、
凄惨な粛清の加担者にも被害者にも
なっていた事を獄中で聞いて
絶望したという。

加藤登紀子はこの間にも後の夫への
思いを成就すべく交際を続けて、
厳しい周囲の目があったという障害を
乗り越えて遂に獄中結婚をして夫婦と
なった。

彼女の周囲が、藤本敏夫と夫婦になる事
を反対する中で母親の淑子だけが、
彼女を後押しした結果だった。

加藤登紀子は夫が獄中にいる時に長女
を出産し、夫婦生活をスタートした。

 

 

加藤登紀子の娘も歌手の道へ進み、
鴨川自然王国で母娘共に奮闘する

 


加藤登紀子が娘を出産し、子育てに奮闘
していた頃、夫の藤本敏夫は農業を志望
して栃木県の黒羽で服役し、出所
するまで園芸の仕事に従事した。

その間に「食」への思いの強さと、
その元になる「農」との融合に
強い興味と関心を持つ。

後の「鴨川自然王国」の構想はこの時に
出来ていた。

1974年出所後、有志と共に
「大地を守る会」の会長として
有機農業の販売を始める。

当初は学生運動で革命を目指した学生が
落ち目になって団地を野菜を売っている
云々と笑い者になっていた。

だが藤本敏夫以下大地を守る会の
第二の革命への道は、
さらに困難が付きまとった。

野菜を売り切ることが出来ずに腐らせて
しまい、その野菜を夢の島に捨てたり、
生産者に土下座して支払いを待って
もらったりの艱難辛苦の時代が続いた。

加藤登紀子も娘の教育や歌手活動に
奔走しながら夫を支え、大変な思いを
しながらも3人の娘の子宝に恵まれた。

そして1977年4月、
大地を守る会の一員が
有名人を使って販売しようという
アイデアで、
東京池袋の西武百貨店で開かれた
「無農薬野菜フェア」が大成功した。

売り子には加藤登紀子を始め、永六輔、
野坂昭如、松島トモ子という
歌手を含めた有名人が
売り場に立った事が評判を呼んだ。

これは大きな反響を呼び、問い合わせが
押し寄せたが、生産と販売の体制が脆弱で
クレームが相次いだ。

そこで大地を守る会が最初に取った
行動は、農閑期に生産者と消費者を
一堂に集めて本音で語り合おうとの
試みだった。

これが現在まで毎年開催されている
「大地を守る東京集会」という
伝統行事である。

この集会で、大地を守る会会長の妻、
歌手加藤登紀子も歌を披露した。

この集会の回数を重ねることによって、
体勢は軌道に乗るようになった。

1981年には鴨川自然王国を設立。

ここでは現在でも
米や大豆等の有機栽培の指導を
会員を募って行われている。

2002年、藤本敏夫は
肝臓ガンでこの世を去った。

妻の加藤登紀子は夫の息を引く瞬間、
目の前に広がったのは彼の怒涛の人生
だった。

その時の曲が「青い月のバラード」
である。

2007年からは加藤登紀子と同じ歌手の娘
yaeも鴨川自然王国で暮らし始めた。

彼女は東京育ちだが、鴨川自然王国で
生活しているうちに、
食べ物を自作できる事が
「何があっても平和でいられる」
との確固とした思いを持ったと言う。

そこで彼女は現在の夫と出会い、
鴨川自然王国に根を下ろした生活を
謳歌し、自らの肩書を「半農半歌手」
とし、娘として母と同じ道を歩む。

加藤登紀子と娘yaeの歌手の親子が
末永く暮らそうと決めた所は、
鴨川自然王国と言う、夫の藤本敏夫が
第二の夢を追いかけた場所である。

まとめ

 


加藤登紀子の夫、藤本敏夫は、
学生運動をしていた頃は革命家の夢を
追いかけていた。

その夢は獄中で環境問題にシフトし、
無農薬野菜を広めるという形で
幾多の困難を乗り越えて結実した。

それは妻の加藤登紀子の支えと
強い気持ちがあってこそのものだった。

彼女は自身の妊娠を知るや、
面会に行き藤本敏夫に子供の出産を
迫ったというほどだ。

この場合女性の方が肝が据わっていると
驚く他ないが、それからというものの、
夫はこのことをネタにされることを
嫌がっていた。

それも愛情ゆえの勇み足とみれば
微笑ましい。

愛は行く手を阻む壁が、大きいほど
燃え上がるということなのだろう。


参考URL
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//anincline.com/kato-tokiko/
//tscolumns.hatenablog.com/entry/2015/06/08/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E7%99%BB%E7%B4%80%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%AB
//kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E6%95%8F%E5%A4%AB-1585997
//matome.naver.jp/odai/2135436391564520201
//www.daichi-m.co.jp/history/807/
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//www.news-postseven.com/archives/20150415_315466.html
//www.wendy-net.com/nw/person/169.html
//www.mammothschool.com/2011/12/yae/

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