1985年8月に、単独機での事故として
世界最多の犠牲者を出した日航機墜落事故
が発生し、生存者は7人とも言われた。

事故後の救助の真相は、遅々とした対応
だった事から、
大きな紛糾の声も上がっていた。

事故に遭遇した川上慶子さんと事故機
123便の機長の娘、高濱洋子さんの
証言によれば、事故のその後は
苦難に満ちていた。

 

生存者7人とも言われた日航機墜落事故の真相!


1985年8月12日、18時12分に羽田空港を
出発したJAL123便が18時56分に群馬県の
御巣鷹の尾根に墜落した。

この事故で乗員と乗客合わせて524人の
うち520名が命を落とした。

この単独の機体の交通事故として
犠牲者の数が世界最多と言われる事故は
後に日航機墜落事故と言われて後々まで
語り続けられる事となった。

日航機墜落事故の生存者は、当初7人と
報道されたが、実際は7人では無く4人
であった。

この真相は、相次ぐ生存者の報道により
4人である筈の生存者数が誤って重複し
7人と数えられた事による。

この日航機墜落事故の機体のトラブルの
真相は次のようなものである。

離陸12分後の18時24分に123便の
垂直尾翼の後部圧力隔壁の破壊が起こり
垂直尾翼の上半分が飛散した状態になり
しかも機体の油圧が効かない
状態になった。

その時点で123便の機内に各座席の
酸素マスクが落下し緊急放送が流れる。

その時点でも機内のパニックは
無かったと言われるが、墜落寸前には
当然ながらそんな事は無くなった。

そして123便は降下を続け、18時56分に
前傾姿勢で反転するかの様に地面と
衝突した。

以上が日航機墜落事故の真相であるが、
上述の垂直尾翼の破壊が起こった原因は
この機体がこの事故の7年前にしりもち
事故を起こした際に、製造元である
ボーイング社の修復にミスがあった事
と言われている。

しかし墜落時には123便の機体は殆ど
原形をとどめていなかったので、
機体に関する真相は判っていない。

この事故の凄惨さもあり、生存者が
4人である筈の生存者が7人とされた
程のパニック状況であったにも関わらず
生存者の救助活動の真相は、
緊急の大事故が起こった時の対応とは
信じられない程遅々とした物だった。

まず日航機墜落事故が起こってから
約20分後の19時15分頃にアメリカ空軍機
がこの事故を発見し、アメリカ陸軍の
ヘリコプターを現場に誘導したが、
何と日本側が生存者の救助寸前に
活動中止命令を出す。

その後航空自衛隊が炎上している123便
を発見の上通報するが、事故からおよそ
2時間後の20時42分に救難隊の
ヘリコプターが到着したが夜間救難装備
が無い事で救助活動は中止された。

救助活動が始まったのは、何と事故から
14時間後の明朝8時30分頃からだった。

しかも現場に駆け付けたヘリコプターは
長野県警機動隊員の物であり、自衛隊が
駆け付けたのはその後だったのである。

何とも緊急の大事故が起こった時の対応
とは思えない真相だが、当然の事ながら
緊急の大事故にまるで対応出来ない
縦割り行政に対してバッシングが
起こった。

もっと早い対応があれば生存者は
謝って報道された7人を大幅に超える事
は確実だった筈である。

もっとも4人の生存者を情報を整理せず
7人と誤った報道にも過失はある。

この7人とも数えられた4人の
日航機墜落事故の生存者と関係者の
中には、事故後も苦渋に満ちた経験を
した人達がいる。

 

日航機墜落事故の被害者川上慶子さんと
123便機長の娘 高濱洋子さんのその後の証言


日航機墜落事故が起こったその後に
苦難の日々を過ごした人の中には
事故の被害者の川上慶子さん、
123便の機長の娘だった高濱洋子さんが
存在する。

キャンセル待ちをして123便に乗り、
日航機墜落事故に遭遇した川上慶子さん
は、事故当時の状況を以下の様に証言を
している。

まず事故が起こる前には、123便の機内が
真っ暗になり、機械油の匂いが機内に
充満して来たと言う。

そして乗客がパニック状態に陥り、
機体が墜落したが、その直後の意識が
朦朧とする中、身内が亡くなって
一人ぼっちになる夢を見たという。

その後川上慶子さんはヘリコプターの音
で意識を取り戻し、救助を受けた。

しかし川上慶子さんの苦難は、その後も
まだ続いたという内容で証言は続く。

彼女の周囲には励ましの声もあったが、
その後事故に関する好奇心を持った
人物によるストーカー被害や、嫌がらせ
の電話等の迷惑を被る様に
なってしまった。

しかしながら川上慶子さんは健気にも
耐え抜き、その後母親の遺志を継ぎ
看護師となり、1995年の阪神淡路大震災
で、けが人の手当てをする事になったが
今でも日航機墜落事故の話をすると
PSTDの症状が出るそうである。

そして日航機墜落事故で墜落した
123便の機長の娘だった高濱洋子さんは
事故が起こったその後、川上慶子さんと
同様に嫌がらせの電話に苛まされたと
証言している。

その証言によると電話の内容は、
多数の乗客の命を奪っておいて
よく生きていられる
といった物が多数だったが、
高濱洋子さんの母親は一つ一つの電話に
対して丁寧にお詫びの言葉を述べていた
という。

しかし日航機墜落事故から15年後、
123便の機長の娘として不遇をかこって
いた高濱洋子さんに心境の変化を
もたらす出来事があった。

高濱洋子さんの父が機長を務めていた際
123便の飛行態勢を命懸けで
立て直そうとする状況での音声が収録
されたボイスレコーダーが公になった
事だった。

その内容は高濱洋子さんはもちろん、
他の遺族の心にも響き、これこそが
123便の乗客と高濱家を守ろうとする
証言その物だったのだ。

その証言を123便機長の娘として
心に刻んだ高濱洋子さんはJALの
客室乗務員となり、父がコクピットに
収まった写真を初フライトから大切に
持ちながら乗客の安全を守って来た。

それ故に高濱洋子さんは、自分が
日航機墜落事故の123便の機長の娘と
知る乗客からエールを送られた際には、
感極まって涙を禁じ得なかった。

そして彼女の乗務の際、毎年8月12日に
客室乗務員として、日航機墜落事故の
123便の機長の娘として、新たに安全を
守っていくと再認識している。

この日航機墜落事故の生存者である
川上慶子さんと高濱洋子さんは、事故の
その後に人を危険から守る
人生を歩んだ。

自分が携わったその後に安心が
訪れるように願いながら。

 

まとめ


生存者7人とも言われた、単独機での
事故としては世界最多の犠牲者を出した
日航機墜落事故の生存者は、
実は4人であった。

真相によれば、事故が起こったその後の
遅い対応があってなお生き延びた
川上慶子さんと123便機長の娘である
高濱洋子さんは、事故後長い間にわたり
苦しめられた証言をしながらも
人々に安心を与える仕事に就いた。

「艱難汝を玉にす」の言葉そのままに。

参考サイト
//xtreeem.com/I0000594#head-8c07c226caab18a70c3b3cbe09ff76e7
//www.news24.jp/articles/2015/08/12/07306700.html

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