衣笠祥雄は上行結腸癌だった!監督できないまま?解説も声がかすれ出ないが直前まで全うした鉄人の功績!!

赤ヘル黄金時代を築いた一人、
「鉄人」衣笠祥雄が天に召された。

最後の解説となった試合では、
声のかすれて出ない事から心配の声が
上がったが、その原因は
「上行結腸癌」であった。

その実績から何度の監督候補の
一人として名前が挙がったほどの
ネームバリューだけでなく、人格者と
しても有名だった彼に対し、かつての
チームメイトや監督も追悼の意を
表している。

 

衣笠祥雄が癌をおして解説をした最後の試合!監督ができない真の理由は?

 


広島東洋カープが1975年に初優勝を
遂げてから、古葉監督在任中の
黄金時代を担った一人、
衣笠祥雄が2018年4月23日に
上行結腸癌が原因となり、
天に召された。

何回も監督候補として挙げられる程の
実績を持ち、試合に出ない日は無いとも
言われた彼は解説でもお馴染みであるが
熱心なカープファンで知られる
谷原章介も、同19日の巨人対DeNAの
解説をしていた衣笠祥雄の話ぶりを
聞いた際、声にかすれがある話ぶりに
不安を隠す事が
できない程であったという。

声がかすれてあまり出ない事から、
ネットでは癌ではないかという声が
上がったが、悲しくもその予感は
的中してしまい、もはや彼との再会は
できない事になってしまった。

彼の声のかすれからも明らかだった
上行結腸癌の兆候は、衣笠祥雄は
どの様に説明していたのだろうか?

衣笠祥雄が周囲に説明した自らの病状!


衣笠祥雄の周囲の人物や解説の視聴者が
異様に感じていた声のかすれによる
あまり声が出ない症状は、
彼が解説を担当した野球中継の
編成担当者によると、本人は「風邪」と
説明していたという。

しかしその風邪が治った事は、肝心の
本人からの連絡が無かった。

しかし試合の解説中に映っていた
衣笠祥雄の表情はかなりこわばった
物であった事から、上述の通り
癌の症状を疑われてしまった。

その声がかすれて出ない姿は、
現役時代のパワフルなスイングが
想像できない程の痛々しさであったが、
今考えれば上行結腸癌をおして
「出場」をした彼に「鉄人」の姿を見た
ファンも多かった。

そして、彼の生前には、上行結腸癌と
同様に、どうする事もできなかった
事が他にもあった。

衣笠祥雄が監督に就任しない本当の理由!


NPBで監督になるには、現役時代に
「チームの顔」と呼ばれる活躍をした
選手が、引退した後にその功績を
たたえる意味で就任するケースが多い。

衣笠祥雄と同年代で、彼と同じく広島の
黄金期を支えた山本浩二が広島の監督を
2度務めたのに対し、その功績から見て
なぜ衣笠祥雄が監督に就任できないか、
疑問の声も少なくない。

しかしその件の取材に対し、彼は
発表できるギリギリの言葉で、本当の
事を声にした。

「いったん現場を離れて世の中に出ると、いろんな人間関係がある。世渡りのうまい人がいれば、得意じゃない人もいる。ユニホームうんぬんは自分がしゃかりきになってどうこうできる問題じゃない」

引用:Sponichi Annex

この言葉を聞く限り、あくまでも
想像の域を出ないが、何かのしがらみを
感じる事が出来る。

この様に無念の思いもある意味合いの
声を残しているが、彼の輝かしい功績を
考えれば、本人以外から見ても
解説者以外に指導者の就任の話が
無い事に、今一つ納得できない
部分がある。

 

最後の解説の声のかすれが信じられない!衣笠祥雄の功績とは?

 


2215試合連続出場を達成し、
王貞治に次いで国民栄誉賞を受賞した
衣笠祥雄は、タフであるばかりでなく
後年の解説の裏打ちとなる、
野球選手としての実績も見逃す事は
できないが、その実績にも関わらず
監督業に縁が無かった事に対する疑問の
声も多い。

それだけに最後の解説となった試合では
上行結腸癌の影響を隠す事ができない程
声がかすれた事で
心配の声が多く上がったが、その一方で
声があまり出ない癌の病状をおして
出演した、現役時代さながらの
鉄人ぶりを見て感動したファンも
多かった。

1979年には不振により古葉監督に
先発メンバーから外される以外、
怪我で試合に出ない事は殆ど無かった
衣笠祥雄であったが、
上行結腸癌は彼の声をかすれさせた
だけで無く、彼を本当の「休場」に
追いやってしまった。

野球選手としても、解説者としても、
そして一人の人間としても敬愛された
衣笠祥雄であったが、ここで彼の実績を
改めて振り返る事にする。

広島東洋カープの歴史に残る衣笠祥雄の功績!


「野球選手になったらでかい家を買って
キレイな女と結婚する」事を夢見ていた
衣笠祥雄は、根本陸夫監督や
解説者としても有名であった
関根順三コーチといった指導者との
出会いもあり、1970年代から頭角を
表し、リーグを代表する選手となる。

そして、
「長く太く」活躍した事が、
連続出場記録以外の
以下の記録から理解できる。


678試合連続フルイニング出場
(1974年4月17日~1979年5月27日)
20年連続シーズン2桁本塁打
(1968年~1987年)
22年連続シーズン盗塁
(1966年~1987年)

その他にも1984年に打点王、1976年に
盗塁王になっているが、引退を決断した
理由は守備に衰えが来た事であった。

しかし、広島東洋カープの歴史の中で
彼の無視する事ができない功績は、
彼のプレーでは無く、怒りが表に出ない
解説からも想像できる様な
チームメイトへの心配りにあった。

1979年初の日本一の時の衣笠祥雄の外す事の出来ない功績とは?


広島東洋カープが2度目のリーグ優勝を
果した1979年の近鉄との日本シリーズは
もつれにもつれて第7戦に突入した。

1点差で広島がリードしていた9回裏、
無死満塁のピンチを迎えていた
抑えの切り札江夏豊投手は、
近鉄の代打佐々木恭介と対戦中、
古葉監督が江夏の後に投げる投手に
準備をさせていた事に気付いていた。

その時、江夏投手が動揺して平静を
保つ事ができない精神状況を察した
衣笠祥雄はマウンドに駆け寄り、
「辞める時は一緒に辞めよう、ここは
お前しかいないんだ」と声をかけ、
江夏投手の心のケアを施した。

そして江夏投手は落ち着きを取り戻し、
このピンチを頭脳的ピッチングで
切り抜けて広島が初の日本一になり、
快打の出ない近鉄はあと一歩の所で
涙を飲んだ。

これが「江夏の21球」と呼ばれて
後に語り継がれる名シーンなのだが、
この快挙も衣笠祥雄の心配りが無くては
できない事であっただろう。

彼は最後の解説で癌による声のかすれを
風邪と説明して「出場」を続けた強さと
解説でも選手を非難する事の無い
優しさをあわせ持っていた事で
多くの人に愛された。

それだけに現役当時の監督であった
古葉竹識は、衣笠祥雄が声のかすれで
声が出ない事を心配をしていたが、
上行結腸癌により天に召された事実を
知ると泣いてしまった事実を明かして
おり、声もかすれんばかりであった事は
想像に難くない。

江夏豊といったかつてのチームメイトも
同様の心境を声にしている。

しかし広島東洋カープの永久欠番
「3」は色あせる事はないだろう。

 

まとめ

 


大相撲の青葉城とも並び称された程の
「鉄人」衣笠祥雄は、一流の実績をを
残しながら監督の座につく事ができない
悲運も味わった。

その人柄もあって多くの人に愛された
彼は、上行結腸癌による声がかすれて
出ない時には、多くの心配の声が
上がったが、その一方で現役時代の
勇姿を重ねて見たファンもいた。

最後の解説を聞いた谷原章介も、
病状を隠し、天に召される直前まで
球場にいた姿に「鉄人」を見たという。

<参考サイト>
livedoor NEWS
Sponichi Annex

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