ネイサンチェンの両親は金持ち中国人!?医者を目指す中国系アメリカ人のプロフィールもチェック!

2017年1月、フィギュアスケートの
全米選手権で、非公認ではあるが
5回もの4回転を成功させた
ネイサンチェンが話題になった。

アメリカ代表として立ちはだかる事が
確実視されたこの選手は、体操でも
ジュニアの一流選手であり、彼の
空間認識能力は体操で鍛えられたと
いわれる。

両親が金持ちの中国人の医者とも
伝えられる彼は、オリンピック以後の
進路についても考えている。

 

両親が金持ちの中国人といわれるネイサンチェン!アメリカに住む母親は医者?

 


1999年5月5日、アメリカ合衆国ユタ州の
中国人の両親の子供の5人兄弟の末っ子
としてネイサンチェンが生まれた。

彼の父親は1988年に渡米して博士号を
取得し、その後グリーンカードを取得
した医科学分野の研究員であって
医者では無く、
母親はまた医者ともいわれているが、
実際には医療関係の通訳であり、
実家は相当に金持ちともいわれている。

ネイサンチェンの家庭は、医者の様な
文化系的な中国人の家系ではあったが
彼の兄と姉もスポーツを行っており、
2人の兄がアイスホッケー、2人の姉が
フィギュアスケートをしていたが、
彼らに関してはアメリカ代表としての
報道はあまり無い。

だが、彼の家庭の兄弟皆がそれなりに
資金が必要なスポーツを行う事が出来た
事実からも、彼の中国人の両親は
金持ちとの推測が成り立つ。

「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」の
言葉を地で行く様に、ネイサンチェンは
幼少期からそのポテンシャルを見せる
事になる。

彼が初めてスケートのレッスンを受けた
際、片足で立つ事を事も無げにこなし、
6週間にわたるレッスンが終わった際に
彼の母親は講師に自分の子供に専属講師
を付ける価値があるかどうかをたずねた
という。

彼の母親も医者顔負けの慧眼を持って
いる事に驚くが、彼女は息子である
ネイサンチェンにバレエ、体操、ピアノ
といった金持ちの両親が子供に対し
日課とするレッスンをさせ、特に体操は
アメリカ国内でジュニアの選手として
活躍する程になる。

そのキャリアが彼の空間認識能力の
基礎になっている事は有名であり、
彼本人も誇りに思っている事である。

そしてまた、この様な彼の育った過程が
彼の進路がフィギュアスケートのみに
限定をされない事にも繋がっていく
事になり、この様に色々なスポーツに
チャレンジした上でどのスポーツを
メインにするかを判断する事例は、
海外のアスリートに多い。

これらの事からネイサンチェンは、
中国人の金持ちである両親に恵まれて
アメリカで順調な成功を積み重ねて来た
とも考えられるが、
彼がフィギュアスケートを始めて
間も無い時点でいきなり試練となる
出来事があった。

両親が中国人の金持ちの医者とも
いわれ、子供の頃から才能に恵まれたが
これをクリアできていなかったら、
アメリカ代表ネイサンチェンは
誕生しなかったかもしれないのである。

 

ネイサンチェンと金持ち両親に危機!アメリカ人も中国人も資金難!医者の将来は?

 


ネイサンチェンがフィギュアスケートを
始めたのは3歳の時であったが、その時
金持ちともいわれる家庭において
困った事が起きていた。

その時点で、中国人としてアメリカで
成功した筈の両親には彼用のスケート靴
を買う資金が無く、後に金持ちの医者と
話題になる事から考えると意外な事実で
あった。

この様な問題は、アメリカ人や中国人に
限らず、ネイサンチェンの様に
フィギュアスケートを続ける過程で、
彼の両親の様に医者的な高収入の仕事を
していても直面するケースがあるのだ。

その事態に陥ったネイサンチェンに対し
手を差し伸べたのが1998年の長野と
2002年のソルトレーク五輪アメリカ代表
で世界初の4回転ルッツに挑み、
ワイス財団を設立した
マイケル・ワイス氏であった。

その時点でネイサンチェンは年齢基準に
届いていなかったが、特別に援助を
受ける事が出来たお陰で、以後10年間に
わたって7万5000ドル以上にのぼる
サポートを受ける事になる。

日本においてもフィギュアスケートは
余程両親が医者の仕事をする様な
金持ちでないと継続は難しく
日本のある現役選手が少年時代に
自分より実力で勝っていた仲間が
金銭面で断念をした事実を語っていた
程なのだ。

以前からアメリカ人は日本人よりも
金持ちであるとの通説が幅を利かせて
いたが、この話を聞くと
ある程度金持ちであっても、
アメリカ人も日本人も中国人も
関係無い事を痛感する。

それ故にワイス財団の恩義を受けた
ネイサンチェンは、自分が4回転を
飛ぶ事は彼のワイス氏に対する
恩返しなのだ。

そして彼の進路に対する指針となって
いる選手は、2002年の女子フィギュアの
部門を制したアメリカ代表の
サラ・ヒューズであり、彼女はその後
エール大学に進むという進路を選んだ。

実はネイサンチェンも大学に進学を
する予定であり、死亡している大学は
何れも難関校であり、進学の適性試験の
数学のテストは満点を取った事にも
見られる様に、運動神経ばかりで無く
頭脳の方も医者に代表される文科系の
系統の両親同様ずば抜けた実力だ。

彼の大学卒業後は医者となる可能性も
考えられなくは無い。

このネイサンチェンのオリンピック以外
の人生にも広がる視野を考えると、
1964年の東京オリンピックで銅メダルを
獲得し、メキシコでも活躍が期待された
にも関わらずオーバーワークで全盛期の
期間を自ら縮めてしまったマラソンの
円谷幸吉選手の様に、
オリンピックで燃え尽きてしまう様な
事態は決して無いだろう。

今季の彼のフリー曲は、中国人として
アメリカに渡り成功したバレエダンサー
リー・ツンシンの半生を描いた曲
「小さな村の小さなダンサー」であり、
曲の主人公を中国人である両親に重ねた
イメージを彼の中で描いている。

 

まとめ

 


ネイサンチェンに限らず、アメリカ人の
アスリートには様々なスポーツにおいて
自らの可能性を試した経緯がある選手が
多い。

ネイサンチェンは体操で空間認識能力を
磨き、サラ・ヒューズに生き方を見習う
という、単に両親が金持ちの中国人の
医者の家庭と言われる環境の要素だけ
ではない裏打ちを積んで来たのだ。

この事は彼より年長の世代にとっても、
本当に豊かな人生とは何かを
考えさせられる。

<参考サイト>
スポニチアネックス
ピョンチャンeye's

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