駅伝の青学大監督【原晋】の伝説!

こんにちは。

正月といえば箱根駅伝が真っ先に
思い浮かべる筆者です。

筆者は駅伝はあまり見ないのですが、
幼少の頃から祖母が箱根駅伝好きだった
ので、今でも正月といえば箱根駅伝が
頭に浮かびます。

今回は青学監督の原晋(はらすすむ)の
伝説や経歴、戦略術などをご紹介したい
と思います。

 

 

2017年箱根駅伝優勝は青学

 


年始の大イベントといえば、
毎年1月2日、1月3日に開催される
箱根駅伝を思い浮かべます。

箱根駅伝は2日の往路と3日の復路が
ありますが、どちらも3年連続で青学が
総合優勝を果たしました。

総合結果の速報を見ると第二位の
東洋大学と7分21秒の差を
作っています。

以下、早稲田、順天堂と続きますが、
このあたりは上位差が1分を切っていて
比較的僅差と見ても、青学は圧倒的な
成果を出しています。

箱根駅伝はランナーが区間ごとにいて、
10区間から成り立っています。

最初の1区では4位、2区で2位と
追い上げて、3区以降はずっと1位を
維持していました。

後半7区で脱水症状を起こした
田村(3年)に対して監督も冷や汗を
かく中、想定内と冷静に8区の
下田(3年)がカバーしました。

お互いのことをよく知り、仲間のために
覚悟を背負った甲斐もあってか3年連続
で総合優勝を果たされたのでしょう。

青学といえば2年連続優勝時に在学中だ
ったランナー(現在OB)が女性関係で
DV事件を起こして一時期大きく
取り上げられました。

その時の監督である原晋が辞任するか
否かという問題がありましたが、
無事3年目も原晋が監督を務めました。

悲しい不祥事があっても監督として支持
され続けている原晋について次項で
ご紹介したいと思います。

 

 

青学監督の原晋の伝説とは

 


青学監督の原晋といえば様々な著書も
出している元陸上競技(マラソン選手)
であり、指導者として有名です。

原晋は広島県の瀬戸内海付近にある港町
に育ち、運動神経抜群だったと言われて
います。

原晋は小学校4年生の頃に不慮の事故で
足を骨折し、リハビリとしてジョギング
を始めたのがマラソン選手として
活躍する最初のきっかけだと言われて
います。

その努力・才能は中学1年生の頃に
開花し、長距離で上級生を抑えて
学校内1位の成績をおさめています。

中京大学に進学した後も長距離で成果を
残し、中国電力に入社後も陸上競技部を
創設するなど、指導者・リーダー
としての熱意も注目されています。

頑張りすぎたのか、その後入社5年目で
故障して選手生活を引退するも、
営業マンとしても成績1位を獲得し
新事業を立ち上げるなど伝説の営業マン
とも言われています。

その後、母校の関係者から紹介を受けて、
青学の陸上競技部の監督に就任するも
箱根駅伝の経験がないため、選手の
スカウトにはとても苦労されていた
ようです。

母校からの好選手が入部するも最初は
成績が芳しくなく、大学幹部から
責められるなど廃部寸前に追いやられる
こともあったようですが、
2010年の箱根駅伝で8位まで躍進
させています。

細く長く続けてきた陸上競技でしたが
指導者側として大きな成果に繋げる
きっかけとなり、2015年には青学は初の
総合優勝になりました。

青学監督の原晋は凄いとメディアで
報道されるので、ずっと凄い人だった
のかというと、それも勿論ですが
何よりも諦めずに細く長く続けてきた
情熱が凄い人だったことが分かります。

そして青学を2015年~2017年にかけて
連続3年優勝に導いています。

監督としての原晋は多くの著書も出して
おり、その多くがビジネス本です。

現役時代は箱根駅伝の出場経験はなく、
オリンピック出場経験もありませんが、
陸上競技もビジネスの悩みについても、
続ければ誰がやっても同じようにうまく
いく方法を粘り強く考えている方です。

自分で考えて行動できる人の育て方、
常識を疑うこと、強い組織の作り方、
相談されやすい人になる方法などなど
興味深い内容が紹介されています。

原晋のことを知るために手っ取り早い
のは著書を読むことでしょう。

まとめ


いかがでしょうか。

箱根駅伝青学3冠と騒がれていますが、
ここに来るまでに原晋という偉大な監督
が数十年努力してきたこと、ついてきた
選手がいたことなど、書ききれない
くらいの人間ドラマがありそうですね。

SAT

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