昭和天皇とマッカーサーの真実のエピソード!

今年も暑い夏である。

原爆の日、終戦記念日が近づく度に
大東亜戦争の敗戦を思う。

もちろん、私はまだ生まれておらず、
私の父親でさえも、幼少期の出来事
であったと、聞いている。

そしてその象徴的な出来事が、
昭和天皇とマッカーサー元帥の
対面であり、日本の未来を大きく変えた
事は、周知の事実であろう。

神話的に、たくさんのエピソードが
我々にも届いたが、真実のほどは
どうなのか気になる。

戦後の教育で、ウソとも言える事柄を
教えこまれてきた世代の者は皆、
真実を知りたがっている。

 

 

昭和天皇とマッカーサー

 


昭和天皇とマッカーサーの信頼と友情
のエピソードや真実にに迫る前に
予備知識に触れておきたい。

❖昭和天皇

第124代天皇であり、在位期間は
1926年12月25日~1989年1月7日。
誕生 1901年(明治34年)
   4月29日午後10時10分
崩御 1989年(昭和64年)
1月7日午前6時33分
御名 裕仁
皇后 香淳皇后(良子女王)
皇居 宮城・皇居
学歴 東宮御学問所修了
副業 生物学者

❖ダグラス・マッカーサー

外国語 Douglas MacArthur
生誕 1880年1月26日
アメリカ合衆国
アーカンソー州 リトルロック
1964年4月5日(満84歳没)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
所属組織
アメリカ陸軍
フィリピン陸軍
軍歴 1903年 - 1952年
最終階級 元帥(アメリカ陸軍)
元帥(フィリピン陸軍)
除隊後 レミントンランド会長
墓所 バージニア州 ノーフォーク

参照:Wikipedia

昭和天皇は幼い頃から
「心身健康第一、天性をまげない、
ものに恐れず人を尊ぶ、
わがままな癖をつけない」
というような教育を受けており、
正に人神となられる為の精神を
学んでおられる。

昭和天皇のお人柄を感じられる
エピソードがある。

東京へ戻る為、鹿児島から出航した
船上にて、昭和天皇がただ一人、
暗い海に向けて手を挙げて挨拶する
お姿があった。

昭和天皇は
暗い海の向こうで篝火を焚き、見送って
くれている地元住民に対し、ひとり、
答礼されていたのだ。

これに気付くのが遅くなった周囲の者は
慌てて軍艦のサーチライトを点け、
岸辺の方を照らしたと言いう。

岸辺の住民たちも、昭和天皇も、
互いに姿は見えぬのに、挨拶を交わして
いたという、昭和天皇の清廉潔白な
お人柄を象徴するような
心が温まるエピソードだ。

また、郡や政府が混乱に陥った226事件
の際には、昭和天皇自ら近衛師団を率い
早急な事件解決を導いている。

皇位継承に関しては、男子に恵まれず、
側室を勧められた折には、不機嫌になり
秩父宮に継がせる様に伝え、皇后さま
への思いやりを滲ませている。

 

 

真実のエピソード

 


終戦時のポツダム宣言には、
一部の反対勢力を抑えて受諾している。

「爆撃にたふれゆく民の上をおもひ
 いくさとめけり身はいかならむとも」

一部、軍の暴走により
負け戦と解っている戦争が、いつまでも
終わらない状況に、意を決した形だ。

終戦を迎え、マッカーサー元帥が
厚木飛行場に降り立った。

真実のエピソードの始まりである。

連合国軍最高司令官であり、
敗戦国日本の占領政策遂行の権限を
握っていた人物である。

日本軍の無条件降伏調印や
東条英機ら39人の戦争犯罪人の
逮捕命令を10日間ほどで遂行した。

アメリカの政策として、
昭和天皇を戦犯として裁く事が決まって
おり、昭和天皇を逮捕する可能性が
大いにあったそうだ。

昭和天皇はマッカーサーに会う為に、
お供は通訳一人のみで命の危険や逮捕の
可能性もある中、アメリカ大使館を
訪問している。

しかし、先方の出迎えは係りの者
二人だけであり、マッカーサーは
ソファで寛いでいた様だ。

この時、マッカーサーは
第一次世界大戦で敗戦したドイツに
占領軍として進駐した父親に
同伴した時の事を想起していたそうだ。

敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍を
訪問した際に、

「戦争は国民が勝手にやったこと、
自分には責任がない。
従って自分の命だけは助けてほしい。」

と命乞いをしたそうだ。

日本の王も同様であろうと予想していた
マッカーサーは、パイプを咥え、
ソファで寛いだままであり、昭和天皇を
見下していた事は明白である。

マッカーサーのそんな態度を前にして
直立不動のままの昭和天皇は国際儀礼
を済ませた後に、語り始めた。

「日本国天皇はこの私であります。
戦争に関する一切の責任は
この私にあります。私の命において
すべてが行なわれました限り、
日本にはただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑はもちろんのこと、
いかなる極刑に処されても、
いつでも応ずるだけの覚悟があります」

通訳の者は、正確に訳して良いものかと
困り果てていたと言う。

「しかしながら、罪なき8000万の国民が
住むに家なく着るに衣なく、
食べるに食なき姿において、
まさに深憂に耐えんものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、
国民たちの衣食住の点のみに
ご高配を賜りますように」

マッカーサーは自分の予測の正反対の
状況に驚愕し、パイプを置いて立ち、
昭和天皇の前で、
同じく直立不動の姿勢をとっていた。

自国民の命を救う為に、自らの命を
差し出す国王など、世界史上ほとんど
例のない事であったためだ。

「私は大きい感動にゆすぶられた。
この勇気に満ちた態度に、
私の骨の髄までもゆり動かされた。
私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、
個人の資格においても日本における
最高の紳士である、と思った」

と、マッカーサーの回想記に
記されている。

会談後には、マッカーサーは自ら
玄関まで見送りしている。

最大の敬意であろう。

そしてマッカーサーは
戦争責任を追及できる証拠は
皆無であるとして、アメリカ政府の
要請を却下している。

その後、昭和天皇とマッカーサーは
11回の会談をし、個人的な信頼関係
を築き、今後の日本の占領統治に
昭和天皇は欠かせない存在であると
考えるようになったという。

昭和天皇を処刑すべきとする
アメリカとソ連の意見を退けて
昭和天皇の命を護る為の先頭となる。

昭和天皇の嘆願のとおり、
アメリカから何度も食料物資の救援を
取り次いでいる。

そして1964年、マッカーサーは84歳で
この世を去っている。

昭和天皇は
「マッカーサー司令官と、はっきり、
これはどこにも言わないと
約束を交わしたことですから。
男子の一言の如きは、
守らなければならない」
とし、戦争に関するお話にも、
マッカーサーとのやり取りは生涯、
語られることは無かったという。

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