
石島浩太さんこと、コウタさんをご存知でしょうか。
元メジャーリーグの通訳や、WBCの開催に尽力してきた経歴を持つ一方、性同一性障害に悩んだ過去もありました。
性転換手術をし、今では女優やミュージシャンとしても活躍されています。
そんなコウタさんですが、それまでの生い立ちが波乱万丈なんです。
まだ今ほどトランスジェンダーについて浸透していない時代を、日本だけでなく世界各地で生き抜いてきたコウタさんの半生に迫ってみました。
コウタ(石島浩太)の性転換!
性同一性障害に悩んでいたコウタさん。
幼少期は世界各地で過ごしましたが、まだそれに対する深い理解がある地域は無く、誰にも言い出せなかったそうです。
ここでは、そんなコウタさんが性転換を決意するまでの経緯についてまとめてみました。
またコウタさんは、石島浩太として結婚していたとの事で、その当時の事についても調べてみましたのでご覧ください。
赤羽ReNY alphaにて「おけい さん」の米寿お誕生日のライブ。皆さまと一緒に我が長谷川初範兄のParallel Universe Bandでお祝い。曲は兄のオリジナル「19回目の神経衰弱」。
Okei san’s 88th birthday live with our Hatsunori Hasegawa’s Parallel Universe Band.
Congratulations Okei san‼️ pic.twitter.com/SnSSyDzrIV— コウタ姐 (@Kotaane) October 4, 2019
コウタ(石島浩太)の性転換!
かつてメジャーリーグでも石島浩太という本名で通訳を務めていたコウタさん。
通信社の記者であった父親の仕事の関係で、子供の頃は世界中を17度も転校しているといいます。
そんなコウタさんは幼少時から、性同一性障害を抱えていました。
多感な10代を過ごした70~80年代にかけて、当時住んでいたアメリカですらまだ、トランスジェンダーという概念がありませんでした。
性的マイノリティーを表す言葉は、ゲイとレズビアンだけ。
「しかもそういう人々があたかも精神障害者のように扱われていて。
だから自分は両親には絶対にその事は言えなかった。」
と、当時を振り返っています。
ホルモン治療は2003年から始めていたといいます。
40代前半の時からという事になりますね。
ホルモン治療は体に大きな負担をかけるばかりでなく、精神的なバランスも崩しやすいのだそう。
実際にコウタさんが受けた性転換手術は、運動療法や音楽療法、カウンセリングなども重ね、4週間の加療を経て退院が許可されたそうです。
過酷な治療だったにもかかわらず、コウタさんは女性になる事に全く躊躇がなかったといいます。
むしろ、ホルモン治療を進めるにつれて、体も心も楽になっていくという実感があったのだそうです。
「それまでは先が見えず、手枷、足枷がついているような状態だったのが、雲が晴れるように目の前が開け自由になったような気持ちでした」
とも語っています。
それだけ長い間、心と身体のギャップ、また周囲からの目に苦しめられてきたという事なのでしょうね。
コウタは結婚していた!?
コウタさんはまだ石島浩太の頃、プロ野球の通訳を務める前に、スーザンという女性と同棲生活を経て結婚し、子供も三人いらっしゃいます。
この頃には既に「自分は女性である」という自覚がはっきりあったものの、知らず知らずのうちにそれを抑圧してしまっていたといいます。
WBC第1回大会で日本の優勝が決まった夜、鏡に移る自分に「もう嘘をつくのはやめよう」と語り、女性になる決意を固めました。
「女性になる決意」を、愛する妻スーザンにも打ち明けたのです。
コウタさんは、妻に、
「トランスファミリーみたいな感じで、家族のままでいられないだろうか?」
と話したそうです。
しかしその時既に、コウタさんがホルモン治療を始めており、だんだん女性らしい体になっていっているのに妻は感付いていたのだとか。
そして衝撃的な事に、妻には愛人がいたというのです。
愛人がいたというだけでなく、妻の愛人に、お金まですべて持っていかれてしまったそうなんです。
裏切られた事にショックを受けたコウタさんは、2007年3月、マンハッタンとニュージャージー州をつなぐジョージ・ワシントン橋から身投げしました。
幸いにもすぐに救助されて一命を取り留めましたが、そんな中行われた性転換手術は、身も心もボロボロになりながら臨んだものだったのですね。
コウタの元メジャーリーグ通訳の経歴と生い立ちがヤバい!
本名の石島浩太の名で、元メジャーリーグの通訳をしていたというコウタさんですが、他にも様々な職業を経験されています。
ここでは、コウタさんの石島浩太時代からの経歴と、ヤバすぎる生い立ちについてまとめてみました。
I’m on my way to Cannes, France. However due to typhoon yesterday, my flight has been delayed.
台風一過の日曜日。朝イチで成田へ。午前11時のフライトが午後8時に変更。仕方有りません。成田空港で夜を明かされた方々でいっぱいです。再びカンヌへ。#mipcom #コウタ姐 #actress #musician pic.twitter.com/6uQIVZAyWQ— コウタ姐 (@Kotaane) October 13, 2019
コウタの元メジャーリーグ通訳の経歴と生い立ちは?
ここからは、コウタこと、石島浩太の経歴と生い立ちを追ってみます。
コウタさんは石島浩太として、時事通信社の海外特派員だった父と専業主婦の母のもと、東京に生まれました。
父親の職業柄、日本と海外で引っ越しは30回以上だったそうです。
4才で東京の上北沢からイギリスロンドンのウィンブルドン・パークへと移りました。
当時の現地は、日本人は珍しく、最初は差別もあり大変でしたが、なんとか溶け込み1年半住んだ頃、父が国連担当となりアメリカニューヨークへ移ったそうです。
イギリスとニューヨークの英語は大きく異なり、移住してから最初の半年は子供ながらに気持ちが荒れたといいます。
ようやくそんな生活にも慣れた頃、再び東京に戻る事になりました。
その時、コウタさんは小学2年生でしたが、日本の学校は海外生活が長いコウタさんの受け入れに難色を示し、1年生として入学する事に。
しかしわずか半年で今度はインドのニューデリーに転勤となりました。
その後また短いスパンで日本と海外を行き来しますが、コウタさんが中学2年生の時、環境の変化と思春期の葛藤から、アメリカでの私生活は荒れに荒れたといいます。
そのため、ハイスクールの2年目に退学処分となりました。
見兼ねた父親は、コウタさんを南カリフォルニアの軍隊学校『アーミー&ネイビー・アカデミー』に入学させました。
当時、そこにはアメリカ全土から問題を起こした生徒が集まっていたような状況で、性的虐待を受けるなど過酷な日々を過ごしたといいます。
そんな中、コウタさんの唯一の楽しみが野球とアートの時間だったとの事。
いつしかアートを志し、卒業後ニューヨークのパーソンズ美術大学へ進学し、アートに情熱を注ぎました。
パーソンズ美術大学で嬉々としてアートを学んでいた3年生の時、電通からスカウトされ、アートディレクターとして現地採用されました。
当時、世界中にオフィスを構えシェアを広げていた電通。
完璧なバイリンガル、且つ芸術に精通した人材を求め、コウタさんに行き着いたそうなんです。
適任ですよね!
この事がきっかけでアートディレクターとして働き、ミキモトやキヤノンの広告を担当していた時、後の妻スーザンに出会ったのだそうです。
ちょうどその頃、コウタさんの父親は南海ホークスを買収したばかりのダイエーに勤めていました。
1988年、その縁でコウタさんはダイエー・中内功会長から直接声をかけられ、通訳兼渉外担当となること事を打診されたといいます。
思春期には野球に打ち込んでいたコウタさんは「これだ!」と感じ、アートディレクターを辞め、福岡ダイエーホークスに通訳として入団しました。
コウタさんは福岡とニューヨークを行き来する結婚生活を送っていたそうです。
コウタさんの活躍は、ここでも日本国内に留まりません。
今でこそ日本人もメジャーリーグで活躍する選手が増えてきましたが、当時は前例が少なく苦労があったといいます。
そんなメジャーリーグ選手達を通訳や代理人の立場で支えたのがコウタさんで、伊良部秀輝、野茂英雄、吉井理人などの通訳や広報を担当し、選手達からも敬愛されていたようです。
巨人とヤンキースの業務提携や、WBCの開催に尽力されてきたといいます。
しかし数十年の年月が流れ、伊良部秀輝は他界し、野茂英雄は現在50代。
人が変わってしまうには充分過ぎる歳月だったのでしょうね。
関連記事:野茂英雄の激太った現在!仕事は何?
下の参照画像は石島浩太さんの性転換前のお姿です。
後ろについて歩いているのが、若かりし頃の伊良部秀輝さん。
画像から時代を感じますね。
1997年8月、球場入りするヤンキース伊良部秀輝(右)。左は通訳の石島浩太氏
引用:日刊スポーツ
幼い頃にたくさん苦労をしてきたコウタさんですが、アートに野球と、自身の興味のあった分野で活躍してきた経歴は、何だか羨ましくも感じますよね!
人生の成功を収めたようにも思えますが、この後、先程触れたように自殺未遂をし、遂には性転換手術を受ける事となったのです。
性転換後のコウタは?
手術後、日本に帰国してからの石島浩太さんは、『コウタ』として心機一転ゼロからのスタート。
一度は実家に身を寄せましたが、父は大変厳格な方で、性転換をしたコウタさんを認める事ができず、追い出されてしまったそうです。
ちょうどその頃、高田馬場で住み込みスタッフを募集しているライブハウスがあり、迷わず飛び込んだといいます。
「ニューヨークのセレブのような生活からは想像もしなかった状況でしたが、自分に正直に生きる事ができて幸せでした。
以前から憧れていた女優業にも挑戦するチャンスに恵まれ、本当に新たな人生が始まりました」
と、当時を振り返っています。
女優業にも憧れがあったんですね!
Miulatin 最新動画です。妄想ヴァケーション中の私。チャップリンネスクに。
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2010年には映画監督の市川徹氏と出会い、映画『さくら、さくら -サムライ科学者 高峰譲吉の生涯-』に、主人公・高峰譲吉の義母、メアリー役で出演しました。
実は、この時コウタさん演じたメアリーも、コウタさんが自殺未遂の後に保護されたレノックス・ヒル病院で亡くなっていた事がわかり、強い運命を感じたといいます。
その後は、両親との関係も修復でき、母の死後に、介護が必要となった父の世話をして最期を看取れたのだそう。
現在は、ギタリスト、女優の他、ボランティア活動、講演活動など、幅広く活躍しているコウタさん。
自身のトランスジェンダーの体験からLGBT運動にも積極的に取り組んでいるそうです。
「私自身は幼少期、美輪明宏さんの存在に大きな希望を感じました。
また、女性になった後、共通の知人を介しピーターさんとも交流ができ、励まされた事も多くあります。
多様な個性が認められるようになった現代ではありますが、まだまだLGBTへの理解は十分ではありません。
マイノリティーだと悩んでいる人に、私を知って欲しいと思います。
そして、何かを感じていただければという思いで、これからも私の人生を発信していきます。」
引用:Business Journal
まだ世の中に理解がなく、辛かった幼少期を乗り越え、同じように悩む人々の為に生きようとするコウタさんの姿が印象的ですね。
まとめ
トランスジェンダーという言葉は、今でこそ耳にする事が増えてきましたが、コウタさんが幼い頃はほとんど認知されていなかったのではないでしょうか。
そんな時代に、父親の仕事の関係で世界各国で生活してきたコウタさんは、壮絶な半生を送ってきていました。
しかしながら、バイリンガルや、人脈という強みを生かし、自身の興味があった分野での仕事に携わる事ができました。
それは国内で平凡に暮らしているだけでは出来なかった経験なのではないでしょうか。
今では、性転換手術にも成功し、女優やギタリストとして活躍する一方、自身のように性的マイノリティーに悩む人々の力になりたいと活動を行っています。
コウタこと、石島浩太さんの活動で、そのような方が暮らしやすい世の中に近付いていけばいいですね!
参考サイト
Business Journal
日刊スポーツ
石島コウタ 公式HP