真珠湾攻撃隊長でありながら、
第二次世界大戦を生き延び、
「夏は近い」という題で自伝を
書き残した淵田美津雄中佐という
人物がいました。
この自伝はアメリカに住む息子さんが
ずっと持っていらっしゃいました。
淵田美津雄中佐が亡くなって
30年以上経って自伝「夏は近い」を
もとにした本が出版されました。
真珠湾攻撃隊長の変化
終戦直後から占領軍司令部に何度も
呼び出され、調べを受けた
淵田美津雄さん。
終戦直前には中佐でなく大佐に
なっていらっしゃいます。
真珠湾攻撃隊長だった上に
あの大戦を生き残ったものですから、
占領軍からすれば、淵田美津雄さんに
聞きたいことは山ほどあったこと
でしょう。
この状況で占領軍側が行った戦犯裁判
に反感を覚えていた淵田美津雄さん。
「しっぺ返しの材料に用いようとの
魂胆」で帰還した捕虜からその扱いを
聞き出していた淵田美津雄さんは、
日本兵に両親の命を奪われた。
マーガレット・コヴェルが捕虜に
対して献身的に世話をする行いを聞き
「憎しみに終止符を打たねばならぬ」
と気持ちを変えることになります。
召喚命令を受けて東京に出てきた
淵田美津雄さんは、進駐軍のバスを
待つ間にジェイコブ・
ディシェイザーの手記が書かれた
冊子を受け取ります。
この手記の内容が、淵田美津雄さんに
もう一つの人生を歩ませるきっかけ
になります。
陸軍航空隊で炊事当番として
働いていたディシェイザーは、
真珠湾攻撃を知り、
「俺も仕返ししてやるぞ」と
爆撃隊に参加することになります。
その彼が、日本の捕虜になり、
日本人をさらに憎みます。
これ以上にないところまで憎しみの
気持ちを増幅させたディシェイザーは
憎しみの原因について考えるように
なります。
そこで幼いころ読んだ聖書を
思い出すのです。
聖書を差し入れてもらい、
その言葉に救われる経験をします。
日本人は「キリストが彼らのうちに
いらっしゃらないのだから、
残酷であるのも当然」と、
日本でキリスト教を広めるようと
決心します。
この話を読んだ淵田美津雄さんは、
キリスト教に興味を持ち聖書を
買い求めます。
これを読み、
「四十七年間も『なにをしているのか
分からずにしていた』という自分の
罪を自覚」するに至ったそうです。
この言葉は、マーガレットの両親が
日本軍に命を奪われる直前に
ささげた祈りです。
淵田美津雄さんが手記を
受け取ったのは昭和24年12月、
翌年の3月に二人は淵田美津雄さん
の自宅で会い、その交流は淵田さん
が亡くなるときまで続きます。
真珠湾攻撃隊長だった淵田美津雄さん
は調べや取材を多く受ける中で、
あの奇襲から10年たっても
真珠湾攻撃を忘れないどころか、
世界が『第二の真珠湾』を警戒して
いることを知ります。
真珠湾を生かせておかないためにも、
アメリカでの伝道が出来ないかと
考えるに至ります。
淵田美津雄中佐が「夏は近い」
という本の題に込めた意味
淵田美津雄中佐は、戦後に
「我奇襲に成功せり」と
トラトラトラの電報を打って
真珠湾攻撃を成功させていた時に、
アメリカの人々がどのように
日本へ憎しみを持つのか知ることに
なります。
軍人勅諭や戦陣訓に基づいた
淵田美津雄中佐の価値観は、
終戦後に大きく揺らぎます。
「夏は近い」の中での淵田さんは、
日本とアメリカ双方の良くない部分を
冷静に見つめて
「こうすればよかったのに」という点
を具体的に示す冷静さがあります。
これほどの方でも、敗戦後に、
軍人として大事にしてきた価値観を
覆された直後には、お酒を飲み、
荒れていた様子が家族からの言葉で
語られています。
真珠湾攻撃のヒーローとして
戦時中は軍人として活躍し、
大佐にまでなりました。
淵田美津雄さんはディシェイザーを
通じてキリスト教と出会い、
信じていたものを失って
荒れた心を落ち着かせることが
出来ました。
それだけに、自分を救ってくれた
キリスト教に対する思いは強く、
真珠湾攻撃隊長という立場を
利用して伝道をしていると
批判を受けても、
「相手に日本人の何たるかを理解して
もらい、自分もアメリカ人を知ろう」
という覚悟を持ち続け、ひるむことは
ありませんでした。
終戦後、淵田美津雄さんは
自分の存在を認めてくれる絶対的な
価値観を求めていました。
宗教にその価値観を求めるのは
必ずしも正解ではないとしても、
彼を救い、彼の伝道を通して
人々の憎しみの連鎖を止めるのに
大きな働きをしました。
「夏は近い」という言葉は、
聖書でキリストが世界の破滅の兆しを
預言した言葉からの引用です。
淵田美津雄さんは第三次世界大戦への
警告をしたかったのです。
淵田美津雄さんの遺稿をまとめた本は
数十年経った今でも多くのことを
伝えてくれます。