「ドカベン」こと香川伸行氏は
その愛嬌ある体型と笑顔で、
浪商高校から南海・ダイエーで
活躍の間多くの人に親しまれた。
しかし現役時代の習慣が体重を
激増させた事がたたり、引退後も
衰えない人気故に仕事が順調であった
にも関わらず急性腎不全により
1日5時間の人工透析が必要になった。
2008年に自宅を差し押さえられ、
生活保護を受ける程に困窮してしまい
若くして亡くなってしまったが
彼を懐かしむ声にその人柄が偲ばれる。
浪商高校香川伸行のあだ名は「ドカベン」!
スター性の陰で懸念された体重
「ドカベン」の愛称で親しまれ、
南海・ダイエーで活躍した香川伸行氏は
NPB史に残る個性派選手の一人である。
「ドカベン」の名付け親は、同名の
人気漫画の作者、水島新司氏であり、
主人公の山田太郎に似ているのが理由で
あった。
香川伸行は浪商高校時代から体重が
大きく、後に中日・ロッテで活躍する
牛島和彦氏とバッテリーを組み
高校3年時の1979年春と夏の甲子園で
活躍し、夏の大会では3試合連続で
ホームランを記録している。
同年秋のドラフトでの捕手香川伸行の
評価は、打撃面は魅力的ではあるものの
体重が災いしてか足が遅く、肩も弱い為
賛否両論あったが、南海が2位指名で
獲得した。
香川伸行は南海に入団して間もなく
チームの先輩であり、少年の頃から
面識があった藤原満内野手と
カシオの「カシオメロディ」という
タイマー付き計算機のコマーシャルに
出演し、
練習終了の時間にアラームをセットした
ドカベン香川伸行が藤原満選手に
小突かれるシーンの笑顔の愛嬌で、
全国区の人気を得た。
体重の件を高校卒業後も取り沙汰されて
いた声を払拭するかの様に、
1980年のデビュー戦で近鉄の
井本隆投手から場外までのホームランを
初打席で放っており、その年の
ジュニアオールスターにも出場する
活躍を見せた。
そして1983年にロッテの落合博満選手と
首位打者争いを演じ、規定打席には到達
しなかったが、打率.313、15本塁打で
ベストナインに選ばれ、南海のドカベン
香川伸行は実力でも全国区になった。
また捕手としてのリード面でも、
引退の時を迎えようとしていた
その時点で西武にいた野村克也選手に
野村選手自身がバッティングの構えを
カウント毎に微妙に変えていた事を
見逃さずに対応していた事に、
高校卒の捕手でここまで出来る事は
素晴らしいと絶賛している。
1981年から翌年にかけて南海で監督を
務めた、「シンキングベースボール」で
名高いドン・ブレイザー氏も、
ドカベン山田太郎さながらの
体重のある体型の割には高い
打撃での柔軟性や、野村氏同様
リードの上手さを高く評価していた。
香川伸行は高校卒の選手として南海の
主力として順調に育っている様にも
思えたが、やはり南海の指導者の懸念は
一向に減らない「ドカベン」のあだ名に
想像される通り彼の体重であった。
高校時代からのトレードマークの
彼の「ドカベン」体型は、以後彼が激増
させてしまう体重のごとく、この先の
キャリアに重くのしかかる事になる。
香川伸行が人工透析を受けるに至った生活!
生活に困窮し生活保護を受ける
香川伸行がベストナインに選ばれて以後
体重を激増させ、晩年に人工透析が
欠かせない身体になり、生活保護を
受けるに至った。
その原因は、南海時代に見られた
過度の糖分の摂取と、その人柄ゆえ
関係者の食事の誘いを断り切れなかった
事にある。
香川伸行が練習中、のどが渇くと
コーラをがぶ飲みしていた事で、1日に
平均10本は軽く飲んでいた。
即座にその種の炭酸飲料の禁止令が出て、
最初は彼も従っていたものの、暫くして
またコーラが我慢出来なくなる事が
あるなど、大の甘党であった。
これでは野球選手の様なハードな練習を
していなくても人工透析が欠かせない
身体になって生活保護受給の生活へ
まっしぐらになってしまう。
当時のブレイザー監督も、香川伸行に
飲んでも良いと許可を与えた
ダイエットコーラをアメリカから
取り寄せる等の尽力もあったが、
彼自身がファンや関係者の食事の誘いを
断る事が出来ないという人柄の良さが
裏目に出てしまった。
この様に彼を連れ回す関係者の存在も、
本人にも問題があるとはいえ
引退後に人工透析が必要になり
生活保護を受けるまでになってしまった
事は否めない。
それが香川伸行の肥満に一層の拍車を
かけ、100kg近くあった体重は激増の
一途をたどり、それに伴い成績を下げて
しまう。
南海の本拠地の大阪球場は、
お笑い芸人が球場に飛び交うヤジに
含まれるユーモアを勉強するために
足しげく通っていた逸話があるが、
香川伸行もそのヤジの標的になって
しまっていた。
その内容は彼の激増した体重を
象徴する、もはや人工透析が必要な程の
病気をして生活保護を受けても
おかしくない程の肥満体型に関する物
ばかりでは無かった。
凡打に倒れた時の罵声はもちろん、
家畜として日本ハムに移籍を促す内容の
ヤジまで飛び交っていたのである。
そこで南海も香川伸行の減量の為に
様々な対策を行い、毎年オフには彼の
減量作戦がテレビで報じられる様に
なったが、そこで多少の成果があった
ならば、何回も人工透析を行って
生活保護受給の生活にはならなかった
事と思われる。
その体型から現役を長く続けられない
という懸念通り、1989年限りで
戦力外通告を受けた。
引退後は野球解説者の他に野球教室、
うどんの通信販売、福岡での居酒屋と
色々な仕事を手掛けたが、
ドカベン人気もあって仕事の売り上げは
上々であった。
だが2001年に急性心不全により緊急手術
を受けた後に3年間の療養生活を送る
事になる。
その間は1日に5時間もの人工透析を
週3回も行う必要があり、手掛けていた
仕事を辞めざるを得なくなった。
そして2008年には自宅を差し押さえられ
住宅金融支援機構が落札され、
その後自己破産した。
その為に生活保護が必要になるほど
生活は逼迫し、そして2014年9月26日に
腎臓と共に心臓も患っていた事による
心筋梗塞でこの世を去った。
この時点で52歳の若さだった。
香川伸行の追悼記事で、1976年から毎年
NPBの英語版の選手名鑑を発行している
ウェイン・グラシック氏はその記事を
このような文で締めくくっている。
「カガワがダイエットに成功しスリムに
なっていたら、もっと長く活躍していた
に違いない。でもそれは愛すべき
ドカベンとは別人だ。カガワはドカベン
だったが故に30年たった今も、
日本のプロ野球史上最も記憶に残る
個性派選手のひとりである」
引用:「Dokaben」フォーエバー、英字紙にも追悼文
まとめ
香川伸行が南海入団時に藤原満内野手と
カシオ計算機のCMに出演した際の笑顔は
高校時代以来の人気を全国区にした。
ドカベンの愛称で親しまれた人気者で
あるだけではなく、リードと打棒で
将来の南海の主力の座につく事も夢では
無かったが、周囲の懸念であった体重の
激増は彼自身だけが原因ではなかった。
それがたたって人工透析が必要になり、
生活保護を受ける程行き詰った末の
早世は、多くの人が
その死を惜しんでいた。
参考サイト
//ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E4%BC%B8%E8%A1%8C
//tousageru.com/entry66.html
//www.sankei.com/west/news/141105/wst1411050012-n1.html
他