箱根駅伝で青山学院大学を3連覇に
導いた原晋監督の指導方法に、今注目が
集まっている。

選手生活で挫折を味わいながらも、
屈辱をバネにトップ営業マンとなる
輝かしい経歴と新築の家を購入出来る程
の年収を得たが、高校の後輩からの依頼
は、家族である嫁にとっても一大転機と
なった。

新たな挑戦をするべく早大大学院に
入学したこれまでの彼の歩みと指導方法
はどういう物なのだろうか?

 

原晋監督の家族はサラリーマン時代に結ばれた嫁!営業マンとしての輝かしい経歴と年収

 


青山学院大学の原晋監督は、箱根駅伝で
は強豪と言えなかった同大学を3連覇を
達成するまでに育て上げ、その経歴と
指導方法が注目されている。

原晋監督の講演料は、1回100万円とも
言われ、それに加えて本も執筆している
ので年収はどんなに見積もっても
1000万円はあると見る意見もある。

今脚光を浴びている原晋監督であるが、
彼の家族構成は嫁1人で、二人の間に
生まれた子供はいない。

これは原晋監督と嫁との年齢差がある事
が原因とも言われているが、原晋監督は
50歳、嫁が47歳という極めて普通の年齢
差なので、この憶測は正確ではない。

2人は原晋監督がサラリーマン時代に
知り合って結婚したが、この家族構成は
嫁も多忙な青山学院大学の寮母業をする
という経歴があった事が原因だ。

家族の件以外では、年収を含め順調に
人生のマラソンで歩を進めている様に
見える原晋監督は、その経歴の中で
大きな挫折があり、また確実な年収を
得る道を断つ一大転機もあった。

中学で陸上を始めた原晋監督は、駅伝の
名門として知られる広島県立世羅高校に
進学し、陸上部で主将として活躍した。

しかし大学は箱根駅伝とは縁がない
中央大学に進むという変わった経歴が
ある。

そして同大学在学中には「日本インカレ
5000メートル」で3位に入賞する好成績
を収める経歴を買われて中国電力に
入社し、エースランナーとして期待
されていた。

この時点で将来と年収は保証されたかに
思われたが、大きな悲劇が彼を襲う。

入社から4年目には主将となったが、
右足首の捻挫などの故障が元で、
選手としての経歴にわずか5年で
ピリオドを打ってしまう。

だが中国電力には籍を置き続ける事は
出来た様で、1995年に家族となる現在の
嫁と結婚する。

選手生命は絶たれても年収が途絶える事
は無かったが、新たな仕事である営業
としての配属先は、数ある支店の中でも
下の方の営業所であった。

しかしここで原晋監督は猛烈なスパート
をかける。

社内の企画や広報にも果敢に取り組み、
その甲斐あって1000万円の企業用省エネ
空調機を何台も売り、営業として
販売成績トップの座を得た。

本社に勤務する同期と比べて一時経歴と
年収で差を付けられていたが、スパート
でごぼう抜きにしたのである。

そして多大な年収を手にした原晋監督は
家族である嫁と幸せに暮らすべく新築の
家を建てて間も無く、世羅高校時代の
後輩からある依頼を受ける。

それは家族である嫁にとっても
一大転機となった。

 

原晋監督の時代に即した指導方法!早大大学院で彼にかかる期待!

 


原晋監督が高校の後輩から受けた依頼
とは、その後輩が卒業した大学である
青山学院大学で駅伝の監督に就任して
もらいたいという内容だった。

この時、彼は早大大学院でスポーツ科学
研究科に入学する時のような気持ちの
高揚があった事が想像される。

この依頼を快諾した原晋監督は、同大学
の陸上競技部の中・長距離ブロック監督
に就任する。

この就任は中国電力を退社した上での事
で、正に不退転の決意を感じる
決断だった。

そしてご存知の通りに3連覇を達成する
事になるが、原晋監督の指導方法は
大学院でも恐らくその意見を尊重
される事は間違い無いと思われ、
上述のサラリーマン時代に目的を達成
したメソッドが基本になっている。

その指導方法の基本理念は
「まず何をすれば最大の成果が出るか」

という物で、要点を掴めば早く成果が
出ることは確実であるという内容だ。

原晋監督は現役時代、トラックを周回
してダラダラと走り続けなかった事から
練習嫌いとも言われたが、この姿勢は
やるべきことが終わったら切り上げる
という指導方法に通じている。

そして原晋監督のもう一つの指導方法の
特徴は、
「議論を大切にするべき」

という物である。

これは企業の発展にも必要な行動だが、
会社の上司の顔色をうかがい迎合ばかり
する企業は発展する事は無く、
グレーゾーンの中にある様々な意見を
出し合って議論をしてやるべき事を
決める事が大切であるという考え方で
ある。

原晋監督によれば、これは単に
「自分の意見が言える様にならなくて
はならない」という次元では無く、
常識は時代によって変わる物だから
自分でやるべき事を考える必要性
の認識を育てる指導方法である。

また彼は、いくら上司や監督という上の
立場の人物が指示をした所で、その指導
方法が大きく遅れていたら下の立場の
部下や選手は誰も言う事を聞かなくなる
という危機感の重要性をも訴えている。

そして原晋監督は、2017年4月に
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科の
入学式に出席し、日本陸上界を変える為
新たな挑戦をする事を表明した。

同大学院からは元巨人の桑田真澄、競泳
日本代表の平井伯昌ヘッドコーチを輩出
しており、この大学院OBと同じ平田竹男
ゼミで原晋監督も学んでいる。

平田教授は、彼が日本陸上界の改革者と
なる為に、大学院での仲間を作って
欲しいとエールを送っており、彼の
指導力と人間力に大きな期待を
寄せている。

 

まとめ

 


学生時代から主将としての人望もあった
原晋監督の選手生命は、まさにこれから
という時期に断たれたが、営業マンと
して高い年収と輝かしい経歴を得る
逆転劇を演じ、そして安穏と暮らす
事を拒むかの様に家族である嫁と選手
を育てる事に邁進した。

企業でも過去の成功体験にとらわれては
すぐに時代遅れになってしまう現代、
原晋監督が大学院で指導方法を学ぶ姿勢
は参考になるだろう。

参考サイト

//dreaming-baby.com/sports/p359/
//tibicoro.com/5149.html
//wisdom.nec.com/ja/business/2016081902/index.html

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