明智光秀本能寺の変に真実!スペインで子孫 憲三郎氏が発見したモノ!?

明智光秀の引き起こした本能寺の変に
新たな真実が出てきた。

子孫の明智憲三郎氏がスペインにある
修道院で発見した織田信長の資料が
これまでの説を覆す事になるのか!?

 

 

明智光秀と織田信長「本能寺の変」に真実

 


本能寺の変は、
1582年6月21日に明智光秀によって
巻き起こされたとされてる。

あらすじとしては、

中国地方を治める毛利を討ち果たすべく
西へ向かった羽柴秀吉に加勢するため
後を追った織田信長は、
事件の2日前より、京都・本能寺に
滞在していた。

更に織田信長の家臣・明智光秀が
羽柴秀吉と合流するために、
大軍を将て後を追っていた。

だが明智光秀は突然、反旗を翻して
本能寺へ向かい、主君・織田信長を
襲ってしまった。

というもの。

これは真実なのか?

戦国史最大のミステリーとして
今も推理好きを魅了しつづける
「本能寺の変」には、
様々な謎と説が存在する。

織田信長に勢いがあったとはいえ、
護衛があまりにも少なくないか?

戦略家として知られた明智光秀が何故、
無謀ともいうべき暴挙に走ったのか?

明智光秀に関する文献が
他に比べて少なく、人物像がハッキリ
していない事も謎である。

織田信長によって、
日頃から詰められていた明智光秀が
精神的に崩壊していたため等、
まるで真実かの如く、
歴史作家たちによって、
様々な説が挙げられてきた。

 

 

明智光秀の子孫、憲三郎氏とスペイン

 


戦国史において最強のヒーローである
織田信長を本能寺の変で不意打ちした
という『汚名』。

明智光秀の子孫である明智憲三郎氏は
人生において、悪評高い『明智』の姓を
名乗る事を辛く感じていた。

しかし明智光秀が織田信長への恨みで
謀反を起こし主君の命を奪うに至った
という通説に対して疑問を抱いていた。

そして50年間、
三菱電機に勤めながらも、
真実を知りたい一心で、明智光秀に
関して独自に調査を続けたという。

最も一般的な説としては、
織田信長によって、日頃から
詰められていた明智光秀が、
その恨みを晴らすために
警戒の薄かった本能寺にて闇討ちした
というものである。

しかし、
子孫である明智憲三郎氏によれば、
これらの定説は、真実ではなく、
秀吉から始まり、江戸時代にも
様々な作家によって作られてきた
ものだという。

今で言う、プロパガンダであろう。

元々、
斎藤道三から織田信長に仕えるように
なった明智光秀は、戦術・兵法に長け
織田信長から重用されていた。

そして、織田信長は
予てから危険視していた徳川家康を
本能寺に誘き寄せるので闇討ちするよう
明智光秀に命じていたというのだ。

当時の記録には、徳川家康は本能寺へ
向かっていたとあり、また、
明智光秀の家臣が残した記録には、
「本能寺へ行く理由は、徳川家康を
闇討ちするためだと思っていた」
という言葉がある。

一方、『イエズス会日本年報』によれば
織田信長が中国制服の野望を果たす為に
明智光秀が進行を命じられた場合には、
一族滅亡の強い懸念があったとある。

明智光秀は、中国侵攻か謀反かの究極の
選択を迫られていたと推察される。

これにより、明智光秀は徳川家康に
織田信長からの闇討ち指令を
リークし、協力関係を築いて
『本能寺の変』を2人で起こした
のではないか?という考え方が出来る。

そして、スペインの貿易商人であった
アビラ・ヒロンが記した『日本王国記』
には、衝撃の資料が残っていた。

『日本王国記』には、
当時の日本の政治情勢、生活習慣など、
日本人にとっては当たり前のことが
詳細にに記されている。

遠い異国の地、スペイン。

そこには、政治的圧力は及んでいない
ものと思われ、真実である可能性は
非常に高いものだ。

そして、そこに記されていたのは、
織田信長の最期の言葉である。

一般的には、「是非に及ばず」が、
最期の言葉とされてきたが、ここには、
「わしは自ら命の終わりを招いたな」
と書かれている。

つまり、『是非に及ばず』は、
我儘に生きてきた織田信長が一方的な
明智光秀の謀反に対して遺した、
潔い言葉として伝えられてきたが、
この言葉は、自ら仕掛けた徳川家康の
闇討ち計画によって織田信長自身が
闇討ちされてしまう事を指す。

これは、歴史的大発見であり、
これまでの定説を覆しても余りある
証拠資料であろう。

しかし、まだまだ全容解明には程遠い
戦国史最大のミステリー『本能寺の変』

謎が謎のままであるからこそ、
ロマンを感じる事が出来るのであろう。

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