野中広務の正体!現在は病気で息子は?麻生太郎と差別との戦い!

自民党元幹事長であり、また官房長官
でもあった野中広務が、2017年11月27日
に病気により京都市内の病院に入院して
いる事が明らかになった。

現在彼の病気の情報は錯綜している
状態で、真偽ははっきりとしていない。

彼の正体はハト派と言われながら
予算委員会や麻生太郎の差別発言で
気概を見せ、タカ派になったら
恐ろしい人物とも言われた。

その姿勢は彼の息子以降の世代に差別の
ない世界を目指す為だったのである。

 

現在、病気と言われる野中広務の容態は?そして驚きの正体!

 


現在に至るまでテレビ出演も多く、
自民党では幹事長を務め、また小渕恵三
政権時代には官房長官を務めた野中広務
が、2017年11月27日に京都市内のホテル
で倒れ、病院に緊急搬送されていた。

実は現在の病気の前触れは2週間前から
あったとの事で、この症状が入院に至る
までに病気が重くなったとも言われる。

彼が搬送された原因の病気は脳出血の
可能性も取り沙汰されているが、報道局
によって病気の名前と容態の情報が
まちまちの状況である為、正確な所は
11月28日現在で未だ判っていない。

彼の正体は自民党を陰で支えて来た人物
である為に、その容態が気になる声は
大きいと思われる。

ちなみに彼には長男、長女、次女の子供
がいたが、長男は3歳で病気で死去、
次女は早産で亡くなっており、
長女だけが元気に育っている。

2016年6月からの復党の件も、
その正体が「影の総理」と言われる程、
自民党のキーマンとしての実績があって
の物だろう。

90歳を過ぎてからの復党を果たして
現在も影響力を持つ野中広務とは
どの様な人物なのか?

ここで彼のキャリアを振り返って
見る事にする。

1925年10月20日に京都府船井郡園部町
(現在は南丹市園部町)に生まれた彼は
大阪鉄道局に勤務後、園部町町会議員と
同町長を務めた後、京都府議員と同府
副知事を務めた事から、キャリアから
見る彼の正体は叩き上げと考えられる。

そして1983年に衆院選で初めての当選を
果たし、村山内閣では地方自治の経験を
生かすべく自治相(現在は総務相)を、
小渕内閣では官房長官を、
森喜朗内閣では自民党の幹事長を
歴任した。

自民党に在籍中、細川内閣の発足の際
には自民党は野党となるが、野党の
経験がない自民党議員の中にあって
同内閣の予算委員会では当選前の野党
経験を生かした追及をして実力を
認められた事もある。

その時、野中広務の正に野党的な正体を
垣間見た議員は少なくないだろう。

そして2003年に政界を一旦は引退したが
2016年に自民党に復帰した事は
上記の通りである。

野中広務はブランクがありながら
現在に至るまで正に
「縁の下の力持ち」として自民党を
支えて来たのである。

ハト派と称される野中広務ではあるが、
その正体は気概に溢れる人物故に
病気を気ではね返す程の
恐ろしいタカ派にもなり得るとの声も
あるが、現在は病気の重さが大いに
気になる所だ。

その野中広務の正体は、麻生太郎が
2003年9月11日の自由民主党総務会に
於いて、過去に野中に対する差別発言を
した事の批判の際に明らかになる。

 

麻生太郎を激しく非難した野中広務!部落の農家の息子として目の当たりにした差別とは?

 


野中広務は、この自由民主党総務会に
於いて、麻生太郎が過去に野中広務に
対して差別的な発言を批判したが、
その発言内容は、この様な物だった。
「野中のような部落出身者を
日本の総理にはできないわなあ」

この内容では、余りにも不用意としか
言いようが無く、人の逆鱗に触れても
不思議では無い、差別意識丸出しの
コメントである。

野中広務が部落出身故に忸怩(じくじ)
たる思いにとらわれた事は、彼が出世を
する度に出自を問題にして差別意識を
現していたという、ジャーナリストの
魚住昭の証言からも想像出来る。

その積もり積もった差別意識に対する
鬱屈した思いもあったのだろうか、
上に述べた2003年9月11日の自由民主党
総務会に於いて野中広務は麻生太郎を
激しく非難したという訳である。

野中広務に気圧された麻生太郎は、何も
答えず、顔を真っ赤にしてうつむいた
ままだった。

麻生太郎はマンガなどのサブカルチャー
が好きな事で知られるが、しかしそれ故
に彼の息子より下の世代にもウケると
思われる、サブカルチャー好きの心に
刺さる言葉で説明しようとして不用意な
発言をする恐れがある事を指摘されて
いる。

しかし部落の農家の息子から叩き上げで
出世した野中広務は、この様な差別意識
を感じる発言に、麻生太郎の奢りを見た
事は間違いない。

世襲議員としての道も選べる家庭の息子
であった麻生太郎は、農家の息子である
身から叩き上げで出世した野中広務の
逆鱗に不用意にも触れてしまったのだ。

野中広務が今の自民党にあって親韓国、
親中国、そして平和主義の姿勢を
取り続けている理由は、京都府園部で
暮らしていた時の影響による物だろう。

園部近辺ではマンガンなどの鉱山が
多数あり、そこでの過酷な労働環境から
抜け出して来た朝鮮人労働者を家で
かくまう為に息子として手伝った事、
朝鮮人に対する差別を目の当たりに
して来た事、そして彼の子守をしていた
人が朝鮮人女性であった事が恐らく
ルーツである事は間違い無い。

その経験があったからこそ、
息子、孫以降の世代に差別のない平和な
世界が実現する事を夢見て、野中広務は
国会で闘士となったのである。

 

まとめ

 


部落の農家の息子として苦い差別の経験
を持つ野中広務は、今の自民党では異色
のハト派であるが、麻生太郎への批判で
見られる様に病気を気で跳ね返すと思う
程の硬骨漢である。

彼は慰安婦問題がまた再燃している
現在においても親韓国の姿勢を
通しており、タカ派に傾いている自民党
内では異色の人物ではあるが、これも
彼のキャリアから来る調整能力と気概を
買われて現在に至るまでの在籍と
なったのだろう。

参考サイト
//newsnews1234.blog.so-net.ne.jp/2016-06-13-2
//mihime-dream.com/5518.html
//shopworld.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_5c48.html

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